クルド人政治家ブルカイ氏、「PKKは国家がつくった」
2012年01月18日付 Radikal 紙
クルド人政治家ブルカイによると、オジャランがトルコに移送された後、エルゲネコンに関する捜査が始まったという。ブルカイは、PKK(クルド労働者党)が国家的策略であったと主張した。
クルド人政治家の筆頭であるケマル・ブルカイは、「PKK(クルド労働者党)は国家的策略」であったことを訴えた。ブルカイは、昨日、トルコ大国民議会人権調査委員会内で組織された、テロ・武力事件における生きる権利の侵害を検討する小委員会に赴き、意見した。ブルカイはPKKおよび国家の双方を批判した上で、アブドゥッラー・オジャランがトルコに移送された後、エルゲネコン組織の監督下にあったと主張した。また、ブルカイによると、1500人から2000人のPKK党員がバッシャール・アサドを支持するためシリアに移ったという。ブルカイによると、
エルゲネコンについて;エルゲネコンは名前を変えた、対ゲリラ作戦である。
PKK(クルド労働者党)について;現状の政治の誤りを考えずに「PKKはなぜ現れたのか」を明らかにするのは難しい。PKKの出現は、非難されるべき国家的策略によるものであるというのが私の意見だ。オジャランは、「PKKは私たちが作った。そしてパンや武器を政府が与えた。3年間私たちが維持できたのは国のおかげだ」と言っている。ウウル・ムムジュ(訳者注)はこれについて書こうとして殺された。PKKは最初の3年間監視下におかれていた。しかし、その後、状況は変わった。シリアとの関係を強めていったのである。オジャランは私にはっきりと「私たちはシリアで軍の情報機関に属していた」と述べた。最近でもシリアは、PKKに影響を与えている可能性がある。1500人から2000人のPKKの力がシリアに移った。シリアでバッシャール・アサドを支持すると言っているのだ。私自身がシリアに住むクルド人指導者から聞いた。私の心配の種はPKKではない。しかし、この茶番を終わらせたいと願っている。
オジャランについて;オジャランは、イムラル島刑務所に収容された後、エルゲネコンの将校たちの監視下におかれた。彼らはオジャランに彼が行おうとしたことを供述させた。(オジャランが)捕まった後、(組織には)4年から5年の間武器を使わせなかった。そして、KADEK(クルディスタン自由民主会議)、(それ以前には)Kongra-Gel(クルド人民会議)となった。しかし、その後PKKの名に戻り、戦士という位置づけになった。この時期は、クーデターが計画された時期と重なる。国家の内部にある国家(derin devlet)はクーデターの条件を整えるためにテロの必要性を感じたのだ。
BDP(平和民主党)について;BDPが対話者の役割をおびているというのは正しいであろう。しかし、それだけではない。PKKを説得するための役割が彼らにはある。ただ私はBDP党員がこれについて積極的であるとは思わない。
訳者注:1993年に自宅前で爆弾により殺害された新聞記者であり作家。
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( 翻訳者:萩原絵理香 )
( 記事ID:25251 )