ブルカイ氏は祖国に再び社会主義者として、しかしどの政党にも属さずに戻ってきた。自らが生まれた地、デルスィムへむかった。まだ存命の親戚や友人を訪問した。イスタンブルやアンカラにいることが多いが、地中海地方もみてまわったそしてトルコの変化を目にした。
ケマル・ブルカイ氏の発言や姿は、新聞やテレビで目にすることが多い。平和のメッセージを送っている。民主化や民主的解決策を支持している。武器が使われなくなることを望んでおり、オジャランとPKK(クルド労働者党)を最も強く批判している。ブルカイ氏は、PKKを「深層国家」が生み出し、オジャランは「エルゲネコン」のコントロール下にあると発言していた。ブルカイ氏はオジャランと今までに2度会ったそうだ。最初に会ったのはアンカラで、1980年以前だったという。オジャランはブルカイ氏の事務所に来て、「イデオロギー上の問題」についての意見を聞いたという。2度目に会ったのはベカー高原だった。そこではオジャランは「アサド(大統領)とのつながりができた」と語り、シリア国家の指揮下に入ったと述べたそうだ。ブルカイの発言にPKK/BDP(平和民主党)側は不満だ。もともとブルカイ氏が帰国した時から冷やかだった。BDPからはセラハッティン・デミルタシュ党首だけが「お帰りなさい」との電話をかけてきたそうだ。ブルカイ氏はディヤルバクルを訪れた際、オスマン・バイデミル・ディヤルバクル広域市長の庁舎を訪問したという。(接触は)たったこれだけだ。
オジャランとブルカイ氏の共通点は、二人とも国家公務員を経験しているということだ。オジャランは短期間だが土地登記所で働いていた。ブルカイ氏も学生時代に3年間農業省で働いていたそうだ。仕事仲間のある女性は、彼が「僕はクルド人だ」というと、ブルカイ氏に対して「またそんな冗談を!」とさえ言ったそうだ。ブルカイ氏は当時のことを笑いながら話す。
■アルンチ副首相との密会
ケマル・ブルカイ氏に対し、BDPよりもAKP(公正発展党)の党員の方が厚くもてなしているのは見逃せない。トルコに戻った後、エゲメン・バウシュEU担当相とエルトゥールル・ギュナイ文化観光相と会ったことは知られている。ブルカイ氏は、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相の母親が亡くなった時に弔問に訪れた。それに加え、世間に知られていない密会もある。それは先週行われた。ビュレント・アルンチ副首相とケマル・ブルカイ氏は会い、1時間近く会談をした。アルンチ副首相は彼がトルコに戻る前もヨーロッパでブルカイ氏と会い、彼がトルコに戻るよう呼び寄せた人物なのだ。CHP(共和人民党)のケマル・クルチダルオール党首はケマル・ブルカイ氏の帰国を歓迎していたが、まだ会ってはいない。CHPのセズギン・タンルクル副党首は「お帰りなさい」との電話だけしたという。
■ボディーガードを断った
国は彼が身の安全が脅かされると感じたのだろう、ブルカイ氏に対してトルコに来るや否やすぐに4人のボディーガードを派遣した。脅迫を受けても怖くはなかったと語るブルカイ氏は、ボディーガードたちを断ったそうだ。イスタンブル県当局に対して書面で申し入れ、ボディーガードは要らないと言ったという。
ブルカイ氏は、自身の政治闘争よりもおそらく詩人として多くの人に知られている。セゼン・アクスが素晴らしい歌声で歌った「微笑んで」の歌詞はブルカイ氏が書いたものだ。ブルカイ氏はここ2年間で約15の新たな詩を書いた。これらはまもなく一つの本になって出版される。セゼン・アクスもブルカイ氏に電話をかけ、話した人たちの内の一人だ。おそらく近いうちに直接会い、セゼン・アクスの新しいCDの中には、彼女が曲を付けたブルカイ氏の詩が納められるであろう。
■最新の詩:旅人
昨日あの海へと続く道を歩いた
旧友を探すかのように
しかし私の顔を撫でる風は
やあ、さすらいの旅人、と私を呼んだ
「おまえが探している過去は見つけられないだろうよ」
歳月はそれをとっくに持ち去ってしまった
■フラントは「2015年」の生贄?
フラント・ディンク裁判の判決に、誰も満足しなかった。裁判期間はまだ終わっていないが、誰もが頭の中に同じ疑問を抱いている。殺人犯、支援者、関係者のネットワーク、怠慢、扇動者がこれほど露わになっているにもかかわらず、どうして『組織』にたどり着けないのだろうか?裁判を取り巻く環境をよく知っているある友人は興味深いことを教えてくれた。
「知っているか?フラントと司法は2015年のための生贄となったんだ」と言った。「どういうこと?」と聞くと、彼は説明し始めた。「ほら、2015年はアルメニア事件の100周年だろう。アルメニア人たちは、特に『ディアスポラ2015』の準備をしている。世界中でそれに関する様々な行動がとられる。トルコを徹底的に非難しようとするだろう。最後には賠償要求も待ち構えている・・。」
私は彼の話をさえぎった。これらは私たちが知っていることだった。「それはいいとして、これが裁判と何の関係があるんだい?」と私は聞いた。友人は「とても関係がある」と言って続けた。「私が聞いた話によると、『国家』が動いたそうだ。ディンク裁判で(この殺人が)組織的なものだっという判決がでた場合、トルコ共和国が苦境に立たされ、アルメニア人たちはこれを国際的な場に持ち出して、反トルコのために利用することになるということを、きちんと言葉で裁判官らに説明し、裁判官らを説得したんだ。」
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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:25299 )