最後のカリフ、アブドゥルメジドのトルコへの想い、明らかに
2012年03月02日付 Zaman 紙
最後のカリフ、アブドゥルメジドはカリフ位の剥奪によって国外追放となったにも関わらず、トルコへの想いを絶つことはなかった。1939年のエルズィンジャン地震の際には、インドでトルコのために(復興)支援キャンペーンを始めさせた。アブドゥルメジドにより、かなりの額の支援金が集まっていった。
1924年3月3日に剥奪されたカリフの地位は、現在も議論される問題の一つである。カリフ制が廃止されて88年が経つが、最後のカリフ・アブドゥルメジドに関する情報は限られており、数も少ない。ウフク出版から出た『最後のカリフ・アブドゥルメジド』の著者、マルマラ大学準教授アリ・サタン博士は、近現代史に関する注目すべき情報を提示する。この本によると、1939年のエルズィンジャン地震の際、最後のカリフ・アブドゥルメジドは、娘夫婦に呼びかけ、トルコへの援助を集めさせている。インドではトルコのために(復興)援助キャンペーンを始めさせ、かなりの額の支援金を集めることになった。最後のカリフは書記官サリフ・ケラメト・ニガルヘ宛てた手紙の中で、次のように書いている:「娘のドゥリッシェフヴァルと夫のアザム・ジャーは、インドで、アナトリアの被災者の支援団体を設立し、ニザーム藩王殿下(訳注:ドゥリッシェフヴァルの舅にあたる)をはじめ、両親の援助活動に幼い王子も参加させ、大量の資金を集めたようです」。アザム・ジャーはそれ以前の活動について、大統領(イスメト・イノニュ)に手紙を書くことを望んでいた。しかしアブドゥルメジドは、トルコ社会の感情を考えると、そうした努力は賛成しかねないと書き、必要ないと記している。
■最後のカリフの遺体はパリのモスクでイスタンブルへ戻るのを10年待っている
アリ・サタン氏はカリフ・アブドゥルメジドが、共和国史の中で無視されてきた一人であると述べ、これまで十分に知られてこなかったことを明らかにしている。サタン氏は、アブドゥルメジドが否定的なイメージで見られていると指摘し、「しかし、最後のカリフは非常におしゃれで、才能のある人物でした。アブドゥルメジドは、トルコ近代化において重要な人物なのです」と語る。帝国末期のオスマン家の人間たちの間で、アブドゥルメジドは特別な地位にあり、芸術や芸術家のパトロン的側面も持っていたという。近代化の歴史という観点から、最後のカリフに注目する必要があるというサタン氏は、「彼は信心深く、心穏やかな人物で、西洋に対しても聡明な人物でした。東洋と西洋、伝統と近代のジレンマに直面しても、コンプレックスを持たない、教養あるトルコ人だったのです」と説明した。また、アブドゥルメジドが、国外で過ごした20年の間に、トルコに敵対するどんな勢力にも加わらなかったことを述べている。最後のカリフは祖国愛を持ち続けたとするサタン氏は、その例として、アブドゥルメジドはトルコに埋葬してほしいとの遺言を残していることを挙げた。「当時のデリケートな社会感情により、この願いは、10年間聞き入れられず、遺体はトルコに運ばれなかったのです。そして最後のカリフの遺体はパリ・モスクで10年間、その時を待っているのです」と述べるサタン氏は、最後のカリフのパリでの死すら、トルコのメディアでは取り上げられなかったという。サタン氏はまた、オスマン王家が国外追放になった後、社会生活において埋めることのできない空白が生じたと指摘し、トルコ共和国がカリフを擁するという地位を捨て去ったことの影響は、イスラーム世界に今日まで続く深刻な問題を生み出していると考えているのだ。
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( 翻訳者:杉田直子 )
( 記事ID:25721 )