社説:表現の自由のあり方。映画検閲問題を通して
■ルシュディ・アバーザの「犯罪」
2012年4月16日『アル=ハヤート』
【ガッサーン・シャルベル】
親愛なるアラブ人よ、少し落ち着こう。忍耐は最良の武器である。主張しすぎるな。プロセスの崩壊を求めるな。貴方の国の革命の勝利は一夜のうちの変革を意味するものではない。時間が必要なのだ。より多くの時間がだ。暫定期間は往々にして困難と痛みを伴い、長期に及ぶ。受け継いだものも重い。独裁者はその国が瓦礫の下で朽ち果てるまで、その地を離れないだろう。そして革命はまたゼロから始まらなければならない。この任務は決して容易でない。そもそも複雑な問題だ。革命を始めた者や、革命に参加した者、革命を横取りしたと言われる者もいる。落ち着こう。それでいて貴方達の自由と権利は守り抜くのだ。統一された抵抗の衣装を纏って。
私は貴方が自明の理を求める権利を否定しない。つまり、憲法の下で生きる事は市民権概念を是認すること。また、つまり宗教的・人種的・民族的帰属を理由とした差別や疎外を試みる条文も存在しないということ。国は法律の下、構成員と生活との間の相互認識を基盤に造られる。権利と義務。政権の交代。正当な選挙とその結果の尊重。統治者の意思や他のいかなる支配からも独立した司法。これらの権利である。
アラブ人が長きに亘り耐え忍び、多くを失った事は知っている。それでも忍耐以外に解決策はないのだ。電気を求める気持ちは理解できる。立法と暗闇には懲り懲りだろう。後ろ向きな考えの下で暗い家にずっといたならば、現代へ突入する事はできまい。電気の次は清潔な飲用水だ。国民が清潔な飲用水を求める事が図々しいとは思わない。そしてアラブ人の権利として、普通の学校と現代的なカリキュラムを求めること。いかなる「普通」であれ、アラブ人は知性を拘束し想像力を殺すような古く退廃した教育にうんざりしている。学校は就労の機会への展望を開き、継続する科学技術革命が展開するこの世界への参加を可能とする。さらに、自由の権利、疑問・反論・批判・修正を提案する権利、強制的に統一された衣装に対して拒絶する権利、も求められている。
私がこの記事を書くに至った動機は、エジプトの若い読者から届いた一通の手紙であった。彼はかつてタハリール広場へ先頭切って押し寄せた者の一人であり、革命の成功まで広場を離れなかった。内務省の暗がりの中で事前に結果を操作するおそれのない選挙を迎え、投票箱へ足を運ぶエジプト人の姿に歓喜した。彼は当選者やその提案への共感の度合いにかかわらず、選挙の結果を尊重している、との事だった。
この書き出しの後、この青年は自身が抱き始めた懸念を表明する。彼は新聞やインターネットで今後エジプトのテレビにおける検閲が今後厳格になるという記事を読んだ。その厳格な基準は遡及的に適用されるという。検閲機構は既に古い映画を検討し始めており、過激なシーンが削除されなければエジプト人は二度とそれらの映画を鑑賞することが出来ないかもしれない。検閲機構はアブドゥルハリーム・ハーフィズやナーディヤ・ルトゥフィー、ミルファト・アミーンの出演する「木の上の父さん」を決して容認しないだろう。また、ルシュディ・アバーザやシャーディヤの出演する「13番の妻」も親密なシーンが検閲者によって一掃されない限り、エジプト人が目にすることはできないかもしれない。
若き読者の懸念は理解できる。嗜好や理性や想像力に対して統一された衣装を強制する事を夢見る者がいるのは不思議ではない。しかし私が思うに、エジプト国民はもはやこのようなやり方を許容していない。この種の決定を許容していては明日にもタハ・フセインやナギーブ・マフハフーズが召喚されかねまい。「千夜一夜物語」がこうした決定の前に屈した今となっては尚更である。
エジプトは、その大地において創造とパイオニア精神を抑制する事を受け入れてはならない。勝利者が芸術と自由を軽視し、その姿勢でエジプトの遺産や歴史を扱う事を許可してはならない。もし、明日にでも誰かがガマール・アブドゥンナーセルを歴史書から削除するよう求める事態となったらどうか。エジプトが必要としているのは、本物の諸機構の設立と開発事業の開始であり、芸術作品のアーカイブからアブドゥルハリーム・ハーフィズやルシュディ・アバーザによる「犯罪」を一掃する事ではない。
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( 翻訳者:川上誠一 )
( 記事ID:26088 )