イスタンブル映画祭の邦画部門で上映された「僕の言葉はどこ?−Zonê Ma Koti Yo−」のヴェリ・カフラマン監督は、「私の母親や父親の言葉が他の言葉だったら、私が題材にする『言葉』も別だったかもしれない。アイデンティティーや所属は、偶然のようなものだ」と話している。
イタリア行きの準備をしている老ムスタファの孫は、英語、フランス語、そしてもちろんトルコ語が話せる。では自分の母語は?彼は祖父に「教えてくれるなら勉強する」と言う。その祖父は、小学生のとき「トルコ語隊長」としてクルド語を話す同級生たちに25クルシュの罰金を課すことを義務付けられていたのだ!
妻のハティージェと2人で暮らしていたムスタファがクルド語と言っているのは、ザザ語のことである。しかし、字幕では、政治的な議論に発展する余地を残さないように「ドゥムルキー語」と「クルマンジー語」という名称もあわせて用いられている。トルコ語とクルド語の間で沈黙を強いられた、3つの名前を持つ母語…。
ザザ人たちにとって何百年も閉鎖的な社会であったことの唯一の利点は、母語の保護である。しかし、一方で同化政策、他方でクルド問題により直面した大都市への移住により、この言葉は離散した!地方に残っている者たちも、トルコ語だけで教育する学校やトルコ語のテレビに包囲されている。ザザ語はクルド語のように「衛星」から放送されるような機会にも恵まれなかった。
第31回イスタンブル映画祭の邦画部門で上映されたヴェリ・カフラマン監督の「僕の言葉はどこ?-Zonê Ma Koti Yo−」は、実はユネスコが2008年にトルコで消滅の危機に瀕していると宣言した18言語に着目したものである。カフラマン監督も、「母親や父親の言葉が他の言葉だったら、私が題材にする『言葉』のも他のものだったかもしれない。アイデンティティーや所属は偶然のようなものだ」と話している。
■「私たちの父親ほど近い問題」
1時間の作品で、(観客は)老ムスタファの人生とザザ語の生き残りへの努力とを自然とだぶらせてしまうだろう。自分も忘れかけている言葉を「無駄だ」と言われながらも記録に残そうと奮闘する老ムスタファは、時に妻にテュルキュを歌ってもらい、時に昔のテープの録音で自分を励ます。うまくいかない、キャンパスノートに知っている単語を一語一語、トルコ語の対語をのせて書き始める。zonema-私たちの言葉、çe―家…。トルコ語ーザザ語の辞書を求めて足を運んだ本屋から、何も見つけられずに戻り落胆するムスタファは、最終手段として孫のビデオカメラを持って外へ出て、トルコ語の対訳と併せて見るもの全てのザザ語を記録する、思い出になるように…。
カフラマン監督がこの映画を撮影する必要性は、政治的不安に拠るものではない。「あらゆる必要性には、密かな激しさがあるように思える…。映画は常に様々な人生を描き、幻想を抱かせる。そして、これは前向きな幻想であると思う。」
カフラマン監督の具体的な原動力は、ユネスコが2008年に発表した消滅の危機に瀕している言語レポートである。「このレポートによると、世界で2400言語、トルコでは18言語が消滅の危機に瀕している。アフバズ語、アディゲ語、アバザ語、チェルケス語(カバルド語)、アルメニア語(西部)、ガガウズ語、ヘムシン語、ヘルテビン語、カッパドキア・ギリシャ語、ラディノ語、ラズ語、ムラフソ語、ポントゥス・ギリシャ語、ロマ語、シリア語、トゥロヨ語、ウビフ語に加え、私の父親の母国語であるドゥムルキ語(クルマンジー語、ザザ語)も消滅危機言語の一つである。我々から遠いようい見えるが、少なくとも両親ほどには近い問題についての疑問が、最終的に私を映画製作に導いた。」
ムラフソ語、
■「母語とは自分の存在そのものである。」
「母語」とは、生まれた時から持っていて、自分の存在に関わる概念であると話すカフラマン監督は、すべての言葉がまずそれ自体自由にならなければならないと強調する。
「存在に関わる概念が、我々を疎遠にさせるような政治的な言葉により制限され、議論されることを私は正しいとは思わない。本来は、言葉が完全に自由化されるべきだ。すべての「母語」において、全面的に自由なコミュニケーションの土台が築かれるべきだと考えている。これだけではなく、各言語が自身の中で自由になる必要性の他に、(次のような)基本的な立場に達することが大事だろう。「言葉」が日常のコミュニケーションに必要なものであるという機械的な考えを離れれてみると、おそらく、その自身の存在意義を理解できるようになるだろう。「母語」の概念が、タブーであることから抜け出すことが最善の方法である。基本的に、私は「言語」というものをひとつの意味の宇宙として見ている。ある言語が創造した意味の世界を信用せず、さらにその言語をなかったもののように扱うような行いは、抑圧の言語を使用している者自身の不安、恐怖、支配欲の問題から起因している。
カフラマン監督は、言語は、終わることを知らない抑圧や支配しようとする欲望のために消滅の危機に瀕しているという。「ある言語の存続が、必要性に基づく政策のみに拠っているのであれば、その言語を存続は無意味である。ただ過去の怒りを抱えつつ立ち現れるだけの「言語」を作り出すような努力は、自分たちをその言葉から疎遠にする。問題は、我々の心の声であり、誰も他人の言葉を否定しないことなのだ。」
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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:26126 )