村上春樹は、「この作品がこんなに長くなると分かっていたら、書こうとは思わなかったかもしれない」と語る。また『1Q84』のために三年間も缶詰め生活を送っていたと述べ、この小説と登場人物たちが村上自身を捉えて離さなかったと話している。
いつもとは何かちがう四月のある夜、玄関のチャイムが鳴った。その目だけが強く印象に残る一人の配達人が大きな包みを私に差し出し、とても重要な任務を遂行しているとでもいいたげな真剣な声音で「あなたがメリサさんですか?」と尋ねる。私はずっしりした包みを受け取り部屋に戻る。包みの中からは1,256ページからなる本が出てくる。最初のページには『1Q84』と書かれている。私は「ようやく会えたわね」と呟き、二日間もの間家にこもり、読書の旅に浸れるように準備をはじめる。
村上春樹の本は、私の読書人生において、“(気軽に立ち寄る)平凡な停車場”の一つには決してならなかった。これは「村上の独特な一風変わった本を読むことにいつも喜びを感じる」といったようなことではない。「彼のすべての作品を夢中になって一気に読んだ」ということでも全くない。そうしたこととは違うこと、もっと奇妙なこと。「ああ、いい本だわ」もしくは「全然気に入らなかったわ」といった感想の断片を残さず、むしろ読み終えたときこれまで現実だと確信していたものまであやふやにし、私の頭を混乱させるような類のものであった、常に、私にとって村上春樹を読むということは。私は何年か前、『ノルウェイの森』を読んでその奇妙な世界に足を踏み入れた。そしてその世界は他の作品を読むほどにより奇妙さを増していった。いつも早くも最初のページで、あたかも暗い井戸の深みから聞こえてくる村上の、「ほら、飛び込んで」という呼びかけにだまされてきた。いつも自分に何が起きるか多かれ少なかれ気づいていながらも、彼の狂った知性の回廊のなかで我を失いたいと切望する自分がいることに気づき、困惑している。
■凶器のような『1Q84』…
1Q84‐オリジナルの発音では「イチ-キュウ-ハチ-ヨン」と読まれる‐は2009年に出版され、日本での発売初日に初版全てが売れた。我々は当時、日本語を読めない村上の読者としてこの現象を遠くから眺め、我慢するほかないと無言のうちに言い聞かせ合っていた。必ずや勇敢な翻訳家が作業に着手し、待ち焦がれつづけた五年間に終止符を打ってくれるに違いなかった。昨年の十月に英語版が出版されるとほんの少し気が楽になったが、トルコ語版を今週‐ようやく!‐手にすることができるとなると、(あなた方がどうかは分からないが)私や周りの人間は盛大にお祝いした。日本では二年かけて三冊の形で刷られた『1Q84』は、トルコでは一冊の本として出版された。そのため悪意を持った人間が手にしたら殺人凶器になりそうな厚さになった。しかし村上が何気なく語ったところによると、彼が以前書いた「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子と出会うことについて」("On Seeing the 100% Perfect Girl One Beautiful April Morning”)というタイトルの‐たった5ページの‐短編のロングバージョンが『1Q84』だという。
「基本的には同じです。ある男の子がある女の子に出会う。そして別れてしまった後、何年間もお互いのことを探す。『1Q84』ではこのお話を少し長くしただけです」と村上は語っている。さらに村上は、当初全三巻のうちの最初の二冊を執筆しそれで十分だと確信したのだが、BOOK2が出版された一年後にふたたび机に向かいBOOK3を執筆したことも率直に明かしている。『1Q84』のアメリカ版を初めて見たとき‐それはトルコ版と同様に一冊にまとめられていた‐「ずいぶん大きいですね。電話帳みたいだ」とコメントをした村上春樹は、「もしこの作品がこんなに長くなると分かっていたら、書こうとは思わなかったかもしれない」と語っている。また『1Q84』のために三年間も缶詰め生活を送ったこと、この作品と登場人物たちが村上自身を捉えて離さなかったことを告白している。
なぜだか分からないが、私は無謀にも、試みとして『1Q84』を5ページに要約することは可能だろうかと考えている。一つの物語から枝葉を伸ばし、すべての登場人物の内的世界の深みへ入り込んでゆき、入り込むほどに力強さを増してゆく描写、そして「Arigatou! [訳注:原文ママ]」と言って人間を否応なしに跪かせる徹底的な描写によって物語の舞台や登場人物を虚構の世界から現実化するこの小説に、たとえほんの少し短くし要約するためであっても、手を伸ばすことは狂気の沙汰に違いない。そんなことは大きな森を、たった一つのドングリの中に押し込もうとするようなものである。一番いいのは息を止めて最初から最後まで読むこと、その後でたっぷり眠ることだ。
■1984から1Q84へ…
物語は一台のタクシーから始まる。舞台は1984年。タクシーは東京の環状線道路(首都高)の一つで渋滞に巻き込まれている。車の列は一ミリたりとも動かない。後部座席には30歳の美しい女。ストッキングにハイヒール、ミニスカート。彼女は急いでいる、時間までに行かなければならないところがある。彼女の名前は青豆。タクシーのラジオは意外なことにチェコの作曲家ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を流している。そして一部のせっかちな読者の耳に「まあまあ、何が起こるか見て」と囁いている。タクシーの運転手は青豆に、前方の路肩にある階段を使えば最寄駅に行けること、階段を下りて電車に乗れば約束の時間に間に合うことを教える。その約束はとても重要である。青豆はしばらく考え納得して、車から降りる。しかし運転手は‐自分が村上春樹の本の中にいることをよく分かっている‐あの階段を降りたら日常の風景が変わって見えるようになるかもしれないと付け加えるのを忘れない。彼女にこう警告する。「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」*。青豆‐誰かを殺しに行こうとしていることが後から分かる‐は、その階段を下りてゆく。そしてもちろん、すべてが変わってゆく。青豆は現実の1984年から横道にそれ、1Q84年という「もう一つの」世界に迷い込む。
物語にはもう一人、天吾という主人公がいる。30歳の若い数学講師であると同時に、まだ自分の名前で作品を出版したことはないものの言葉の性質をよく解する物書きである。天吾はある日、『空気さなぎ』という小説である雑誌の新人賞に応募したふかえりという17歳の少女と出会う。ふかえりはディスクレシア(識字障害)のために読み書きに問題を抱えている。前述の雑誌の編集者で、文学に造詣が深く、気性の激しい小松は、伝説を作ろうという野心で、天吾にゴーストライターになること、粗雑で未熟な言葉で書かれたこの物語をリライトすることを依頼する。天吾はこの一種の詐欺行為にかかわりたくないと思うものの、ふかえりの魅力や作品に対し、自分が抱いた感情に抗うことはできず、一連の出来事の只中に放り込まれることとなる。『空気さなぎ』はリライトされ、雑誌に掲載されるや否や評判になる。単行本化され、書籍売上ランキングの一位を何週間も独占した。登場人物がこれだけでは修羅場には不十分であるとでも言いたげに、さらにふかえりが「さきがけ」という宗教団体と関係があることが明らかになる。そしてこの小説では外部に対し閉ざされた宗教団体に関する謎を解くことによって‐村上らしいやり方で‐さまざまな出来事や要素が交差しあう。他方で青豆は、男性から暴力を受けた女性たちが身を寄せる屋敷の女主人との間で交わした秘密の契約にもとづき、少女をレイプしたとされるこの宗教団体の指導者を消し去ろうと、物語の表舞台に躍り出てくる。小説はこれほどまでに緻密だが、その物語の本質は20年前に互いに恋をしていた天吾と青豆にある。そしてこの二人はこの物語全体の中で、同じ湖に向かって流れる二つの川のように、時にとても接近し時に遠ざかりながら、しかし同じ方向へ向かって流れ続けている。
■さまざまな登場人物、それぞれが一つの本のテーマとなるような・・・
謎めいた登場人物はこれだけではない。郊外のアルツハイマー病患者が暮らす療養施設に入所している天吾の父親、たえずエロティックな姿で天吾の眼前に現れ、今は居所のわからない母親、事件の解決のため「さきがけ」から任務を託された、恐ろしいほど直観の冴えた探偵 牛河、青豆の重要任務のためあらゆる援助を‐自殺のためのピストルさえも‐提供するマダムの右腕ともいえる側近タマル…。異なるタイミングで物語に加わっていくそれぞれ興味深い登場人物たちによって、小説は果てしない空間の中を四方八方に広がっていくように見える。しかし実際はどの登場人物もたった一つの出来事に捕われているのであり、同じ軸の周りを回っているだけなのである。村上春樹の作品はどれも、時に読者を暗く深い森に迷わせることがあるが、彼はすぐにかすかな声で背後から「こっちだよ」と教えてくれる。しかしそんな村上も巧妙な想像力をもって、あえてもう一度読者の頭を混乱させようとしていると言っておかなければならない。『1Q84』をカルト的宗教、家族の絆、文学、愛に関する小説だと要約することは可能であるが、本質のところでは、お互いを探し求める二人の物語である。作中には予想以上に性的で超現実的な表現が含まれている。(進路を阻む)巨大な胴体に抵抗する水のように流れ行くとしても、『1Q84』は、村上さんが『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』によって読者の心に残したものと一線を画していると言わなければならない。
■「Q」の謎
『1Q84』の背後にある引喩は、この作品に関する議論の最も重要なテーマである。日本語では「Q」と数字の「9」が同じように発音されることを強調する人もいる。しかし中国人と日本人は、『1Q84』について違う考え方をしている。東洋では、この書名は有名な中国人作家 魯迅の『阿Q正伝』の引喩であると一般的に考えられている(訳注:「一般的」という表現はかならずしも実情に即していないと思われる)。また、作中ではジョージ・オーウェルの『1984』への(特にビッグ・ブラザーの関連で)言及が多くなされており、「Q」が「クエスチョンマーク」のQであるとも言及している。
■我々とオーウェルは、同じ場所を反対方向から見ている。
「オーウェルにとって1984年は未知の未来だった。我々にとって1984年はすでに通り過ぎた時間であり、既知の過去の一部である。実際の過去をそうでありえた過去の傍らに置き、双方の要素を交換し、この二つの間の境界をぼやかすことによって、私たちは記憶をより総体的なものにすることができる。だから私は近未来を描くことよりも近過去を描くことに惹かれているのだ。」**
「『1Q84』の執筆中、『1984』を読み返したが退屈に感じた。大抵の近未来小説は退屈だと思う。いつも暗くて雨が降っている。人間はみんな不幸だ。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』は大好きだ。よく書けている。でもやはり退屈だ。暗い話で、人間が人間を食べる。ジョージ・オーウェルの『1984』は近未来について書かれた小説だが、この『1Q84』は近過去について書いている。私たちは同じ場所を反対から見ている。近過去小説なら退屈じゃない。」***
「ジョージ・オーウェルと私はシステムに対して同じ感覚を持っていると思う。ジョージ・オーウェルはジャーナリストであり作家だった。私は100パーセント作家だ。私はメッセージを書きたくない。いい話を書きたいだけだ。私は自分が政治的人間だと思うが、政治的メッセージを表明したりはしない。」***
「私は小説を書くとき、いつも以前ならできなかったことをしているのだと強く感じる。新しい作品ごとに私は一歩前進し、新しい何かを私の中に発見する。私はこの小説を出発点だとは思っていないが、私のキャリアにおける重要な一歩であると考えている。これは私が最初から最後まで三人称で書き通した最初の長編小説だ。」**
「BOOK4を書くかどうか分からない。小説に書いたことの前後にもそれぞれ出来事が存在する。そうしたお話は私の中にある。それに形を与えるのが相応しいのか否か、形を与えるとしたらどんなものにするべきが、まだ分からない。いずれにせよ、結論に至るまでにまだ時間はある。」**
【書籍情報】
『1Q84』
著者:村上春樹
翻訳者:ヒュセイン・ジャン・エルキン
ドアン・キタップ
2012年、1,264ページ、48TL
出典に関する訳注
* 『1Q84』a novel BOOK1、新潮社、2009年、p23から引用
** The Book Bench: This Week in Fiction: Haruki Murakami : The New Yorker からの引用、翻訳か。なお、The New Yorkerの記事は季刊誌「考える人」2010年夏号(新潮社)の一部を英訳したものと思われる。(いずれも記事には明記されていない。)
*** The Fierce Imagination of Haruki Murakami - NYTimes.com からの引用、翻訳か。
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( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:26258 )