劇場民営化を主張するエルドアン首相、かつて自作の劇で主役を務めていた!
2012年05月04日付 Yeni Safak 紙
当時(23歳)のエルドアン首相(右端)
劇場民営化議論の中心にいるエルドアン首相だが、1977年にある芝居の脚本、監督、主役を務めていたことが明らかとなった。
イスタンブル市立劇場の運営方法の変更を支持し、さらに一歩踏み込んで「劇場民営化」を発表して、議論を次の局面へ移そうとしているエルドアン首相が、1977年に自らも舞台裏での経験を持っていた。エルドアン首相は国民救済党青年部の委員長を務めていた23歳のとき、「Mas-kom-yah」という芝居の脚本を書き、監督を担当し、「良い子」という名の主役も務めていた。
ミラト紙の記者イサ・タトゥルジャンの記事の続きを、ヴァタン紙のオズヌル・カルスルとケナン・ブタクンがペンに取り、当時を知る人から、エルドアン首相の演劇経験が語られた。「脚本家、監督、そして俳優のレジェプ・タイイプ・エルドアン!」と題するニュースの中身は次の通り:
タトゥルジャンの記事が出た後、我々はエルドアン首相と一緒に芝居を演じた仲間の行方を追った。その仲間で「Mas-kom-yah」出演者の一人が、現バイラムパシャ市市長のアッティラ・アイドゥネル氏だ。アイドゥネルは当時について次のように語った。
「1975年、私たちは国民救済党の青年部にいました。エルドアン首相は青年部のリーダーでした。当時の私たちはありあまるほどの情熱があり、政治にのめりこんでいました。私たちは非常に行動的で、友人たちと劇団を結成することにしたのです。1975年に劇団を創設しました。団員のほとんどは、何かの組織に属している人、大学生、高校生の友人でした。
古本屋である作品を見つけました。原作は『赤いかぎ爪』というタイトルでしたね。1970-80年の大学で実際に起きた事件を、とてもうまく反映させている作品でした。私たちはタイトルを変え、「Mas-kom-yah」としました。これは「フリーメーソン (mason)、共産主義者 (komünist)、ユダヤ人(Yahudi)」を縮めたものです、稽古はテペバシュ・ガーズィソウでやりました。監督はエルドアン首相が務めたのです。芝居のテーマはある家族の物語。父親の名はアイハン・ベイ。息子たちをヨーロッパへ送った、自身はヨーロッパで宗教教育を受けたけれど、残念ながら信仰から遠ざかり、ヨーロッパの宗教に改宗してしまいその文化で育った人物の役でした。稽古をし、その後イスタンブルの様々な場所で演じ始めました。非常に好評でした。
毎週末演じていましたよ。リゼ、トラブゾン、アンカラなど多くの都市で上演しました。最終的にはアンカラ・パラスでやったんです。この作品が大変な成功を収めたので、アンカラから、つまりネジメッティン・エルバカン首相の前で演じるようお声がかかったのです。アンカラ・パラスへは、15名の友人と出発しました。私が運転し、隣にはエルドアン首相がいました。
その日、私たちはアンカラ・パラスへ行きました。そこに非常に重要な観客がいたのです、ネジメッティン・エルバカン首相やハサン・アクソイ、シェヴケト・カザン、オウズハン・アスルテュルクなどです。盛大な拍手を受けました。この作品を私たちは数年にわたり上演しました。1980年の革命までですね。この間他の戯曲piyesも上演しました。名前は「アクレプ(蠍)」でした。ある大学教授を、彼の育てた学生たちが、後に部屋で殺害してしまう様を描いた作品です。」
■「民営化については当時から話していました」
アイドゥネル市長は、次の点を特に強調した:「エルドアン首相は劇場の民営化には常に関心をもっていました。先ほどの話からもこれが分かるでしょう。当時私たち自身も劇場の民営化は必要だと話していたんです。彼は当時から民営化の必要性を主張していたのです。」
■ネジャト・ウイガルからレッスン
エルドアンの当時の俳優仲間で、ミッリ紙の広告部長ハリル・ギョルベ氏はこう語る。
「1年半に10回この芝居を演じました。私たちの目的は、政党(国民救済党)の収入を確保すること。13名の友人たちとお金をかき集め、1年以上芝居を続けました。当時20代だった私たちに芝居の経験はたいしてありませんでしたが、タイイプ氏は自分の役にプレッシャーは感じていませんでしたね。3、4日ほどネジャト・ウイガル氏からレッスンを受けに行きまして、彼は私たちにジェスチャーや表情をどう使うのか教えてくれました。」
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( 翻訳者:杉田直子 )
( 記事ID:26303 )