「アタテュルクもそこにいた」デルスィム事件で元兵士証言
2012年05月17日付 Radikal 紙

デルスィム虐殺事件の際に、その地域で勤務していた元警官:「アタテュルクはエラズーに来て、「セイト・ルザーの裁判は未だ終わってないのか」と質問した。一日で裁かれ、死刑にされた」

デルスィムの指導者セイト・ルザーが処刑されることになる日、アタテュルクがエラズーに来たという主張は、当時勤務中であった兵隊も証言した。

トルコ大国民議会(TBMM)委員会の中に設けられたデルスィム下部委員会は先週、コンヤに行き、デルスィム事件の際に、第4総監察官職を務めた103歳になるメフメト・アリ・ドアネル氏に話を聞いた。ドアネル氏は、デルスィムの責任者であった陸軍中将アブドゥッラー・アルプドアンの諜報将校ラグップ・ギュムシュパラの指揮下で7年間働いた。下部委員会は、法医学専門家と救急車とともに同氏を訪れた。証言したドアネル氏の精神状態は、正常であることが明らかにされた。

■アタテュルクの緊張

下部委員会委員長ハリル・ウリュン氏の発表した情報によると、ドアネル氏は、セイト・ルザーが絞首刑にされた一日前に、アタテュルクがエラズーに来たこと、そして「裁判は終わってないのか」と質問したと説明した。終わっていないという回答を得たアタテュルクはディヤルバクルに行ったと話すドアネル氏は、裁判が一日で終わり、セイト・ルザーが翌朝に死刑になったと話した。ドアネル氏は、セイト・ルザーが死刑となった次の日に、エラズーに来たアタテュルクが鉄道駅で拍手で迎えられたこと、しばらく緊張気味に歩いたアタテュルクがその後車に乗って、宿泊する宿に向かったと述べた。

デルスィム事件の際に、その地域ではスパイが群がっていたと述べるドアネル氏は、「フランス人が地域の部族を扇動していた」と述べた。ロシア・スパイを常に逮捕し、法で裁いていたと述べるドアネル氏は、ロシア大尉が逃げたと述べた。ドアネル氏は、事件前に陸軍中将アルプドアン氏が和解しようと15のデルスィム部族長を呼び、1カ月間の話し合いを行ったとも述べた。諸部族の自治要求を「独立を要求していた」として説明するドアネル氏は、警備所襲撃で13人の兵隊が殉職した後に、事件が始まったと述べた。「軍隊が入り、地域を一掃した」と話すドアネル氏は、多くのデルスィム住人も銃弾に倒れたと述べた。

■見せかけがなされた

下部委員会は、文書史料でセイト・ルザーの死に関連して驚きの情報と資料にも達した。セイト・ルザーがエルズィンジャンから裁判を受け処刑されることになるエラズーに連れてこられる際に、反発と蜂起を恐れた当時の指導者が「アンカラに連れていかれている」と見せかけをおこなっていたことが明らかになった。エルズィンジャンからトラックの後ろに「アンカラに連行される」として、出発させられたセイト・ルザーは、内密にエラズーに連れて行かれた。文書によると、セイト・ルザーはエラズーでの裁判と処刑に関する情報は、日々アンカラに報告されていた。

■アタテュルク、セイト・ルザーとヨラチトで会ったのか?

セイト・ルザーは、11月14日から11月15日になる夜に死刑にされた。公式情報では、アタテュルクは1937年11月13日にスィヴァス、11月14日にマラトゥヤにいた。11月15日夜に18時にディヤルバクルで出迎えられた。11月16日夜にエラズーに向かった。手元にある写真は11月17日の日付。アタテュルクは、11月18日にエラズーから離れた。アタテュルクが11月14日にマラトゥヤから去った後、11月15日夜、ディヤルバクルに到着するまでの時間、エラズーに行ったといわれる。メフメト・トパルが「アタテュルク、エラズー」という名の本にて、アタテュルクが11月14日にエラズーのヨラチト町に来たことが書かれている。当時の地方紙、「ウルオヴァ」では次のように書かれている。「11月14日にヨラチトに来た、盛大な式で迎えられたアタテュルクは…」。

イフサン・サブリ・チャーラヤンギルは、回想の中で、セイト・ルザーを裁判所から死刑場所に自動車で連れていったと説明している。しかし、その間は、わずかな距離で、セイト・ルザーは最初に死刑となる人物だったが、一番最後になった。その間の一時間の間に、アタテュルクがセイト・ルザーと会ったといわれている。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:石川志穂 )
( 記事ID:26422 )