■『羅生門』!
2012年5月16日 『アル=ハヤート』
【イブラーヒーム・ハージ・アブディー】
ある事件が起きたとき、それがどのような種類であれ、そこには詳細な説明を省略した、一つの事実がある。しかし、衛星チャンネルのフィルターと、その視覚的トリックを通ったとき、この事実は増幅され、転換され、多岐にわたる。事実の表現を誇張するものがいたり、また別のものはそれを過小評価したり、あるいさらに別のものは特定の意図に基づいてそれを説明したりする。したがって、真実とはこの「衛星チャンネルの混沌」の犠牲者であり、そのことは日本映画の古典である故・黒澤明監督の『羅生門』を呼び起こさせる。
1950年制作のこの映画は、三人の目撃者によって語られる、殺人事件を取り扱っている。
殺人者自身と、犠牲者の妻、木こりは同じ事件に関して異なった証言をする。犯罪現場にいた証言者たちの、三つの異なる証言はそれを聞いた裁判官(検非違使)を驚かせるものであり、それはある疑問につながった。「真実はどこにあるのか?」
映画の答えはこうである。「事実が非常に複雑に構成されているとき、真実は多面的になる。」
映画は、我々が比較のために例としているものより極めて深いものだが、衛星放送の周波数の間で真実が失われることへのこの懸念は、視聴者の心を去ったわけではない。彼らは事件そのものに関して、時にあやうく矛盾しそうになる多種多様なストーリーを、見たり聞いたりしている。
最近の事件を心の中で思い返して見ると、次のような多くの疑問が出てくる。
ダマスカスの二つの爆破事件の裏に誰がいるのか?
アルジェリアにおける選挙は不正であったのか?
イラクのターリク・アル=ハーシミー副大統領に向けられた告発の信ぴょう性は?
スーダンのヘグリグ地域での事態のエスカレーションは誰に責任があるのか?
これらの疑問やその他の疑問への返答の中に、私たちは真実を蝕み、あちこちに分裂した、矛盾するストーリーや叙述を聞くのだろう。
「無垢な」情報と根拠に従い、努力して、「無作為な」ストーリーを構築するものがある。しかし、ここで危険なのは、スポンサーの特別な指針にしたがって、真実を消し去るための、テレビの戦いである。
その時、問題は、無知や無作為なアプローチの境界内でとどまらないだけではなく、特定の目的のために、事件にすべて役割を与えるよう、それを超えてしまう。どんな情報が利用可能であっても、目的を変えることはない。
言い換えると、事件の記述に先行した見解をもつものがいる。そして彼は、新たな情報を待つことはせず、また真実に注意を払うことも、元からなく、異なった事件に、同じシナリオを当てはめて、画面に表示するのである。
私たちは繰り返し言おう。全ての衛星放送がひとつのカゴの中にあるわけではないが、しかし、この文脈では「情報の独占」というトーンが圧倒的であり、したがって、画面の外に真実を探さねばならない。
映画『羅生門』に登場する、武士が殺された日本の森は、ファリード・ウッディーン・アッタールによる、ろうそくの秘密を体験した3匹の蝶の話を思い起こさせる(引用は意訳)。1匹目は少しろうそくに近づいて、戻って、こう言った、「これは輝いている」。2匹目はもう少しだけ近づいて、戻ってこう言った、「これは輝いていて、燃えている」。そして3匹目はろうそくの火の中につっこみ、その秘密を理解した。しかし、その蝶は燃えて、真実を掴んで逝ってしまったのである。
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( 翻訳者:榎本飛鳥 )
( 記事ID:26469 )