コラム:取り壊されたメジディエキョイ・リキュール工場をしのぶ
2012年05月28日付 Milliyet 紙
メジディエキョイにあるリキュール工場は、共和国初期の建造物で保護の対象となっていた。同地に事業所や住居を建てるため土地を買収した業者は、一日で建物を取り壊した。
これは殺人だ。残念ながら、殺人を犯した者の良心は傷んでおらず、殺人を見ていた者からも声は上がってこない。
メジデキョイのアリ・サーミイェン・スタジアムに隣接した旧テケル・リキュール工場の建物は、ただトルコのみならず、世界の芸術-建築史にとって保護を要する作品であった。
報道によると、メジデキョイの土地証書には、「この土地の利用は文化・観光目的に限る」と記録がある。しかし、広域市と記念碑高等協会が結託したようだ。まず、証書の制限的記録が消され、その後、この土地で事業所・住居を建てる建築主・売主が望む高さで建設が行えるようにしたのだ。
イスタンブルの街の中心にあって、ほっと息のつける場所がまた一つ、コンクリートに覆われてよしとされたようだ。
文化や緑地が一体我々に何をもたらすというのか。我々が必要としているのは金ではないか。
国の土地がどれだけあろうが、この土地はまず集合住宅開発機構に、そして建築主・売主に引き渡され、すぐにコンクリート化される。
メジデキョイの土地には、1930年アタテュルクの命により、フランスの専門家らによってテケル・リキュール・コニャック工場が建造された。
■48ドヌムの土地がコンクリートに
フランスの専門家らは1939年まで工場で働いた。工場では、テケルの有名なリキュールやフランス産のコニャックと肩を並べるコニャックが製造されていた。工場設立当時48ドヌム(1ドヌム=919㎡)の土地があり、1960年に土地面積13ドヌム上にアリ・サーミイェン・スタジアムが建設された。環状道路がつくられる一方、11ドヌムが高速道路に充てられた。24ドヌムの土地が残り、うち、工場の建物面積は4,600㎡となっている。
工場の建築は、アールデコ時代の非常に著名な建築家、設計家、作家であるロベール・マレ=ステヴァン(1886-1945)によるものである。チャールズ・レニー・マッキントッシュ(C.R. Mackintosh、スコットランド)、ヨーゼフ・ホフマン(J. Hoffman、オーストリア)より影響を受け、1925年にパリで開催された万国博覧会でフランスのパビリオンを手掛けたステヴァンは、 有名建築家、ル・コルビュジエ(Le Corbusie、フランス)の友人でもある。「1931イスタンブル・メジデキョイ トルコ独占リキュール工場」建物も、建築史上、彼の名を轟かせた作品の内の一つである。
■さようなら…
ベファ・ザット氏は、イスタンブル百科事典で、1940年代に工場の庭でリキュール製造に使われるセージ、ミント、タイムの様な強壮効果のある葉やバラが育てられていたと記している。工場向かいの道路の端にハミディエの泉があったことも触れている。
メジデキョイのテケル・リキュール工場は、建物と同じく製品も有名であった。専門家が述べるところによると、この工場は世界で果物から直接リキュールを製造する唯一の工場であった。他所のリキュール工場では、果物エキスからリキュールを製造するのである。
メジデキョイのリキュール工場の特長は、研究開発に力を注ぎ、外国市場で関心の対象となった様々な製品を製造できることであった。工場閉鎖前の数年間、メジデキョイでジン、コニャック、ブランデー、ベルモット酒、キナワイン、ラズベリー、アプリコット、ストロベリー、モカ、アーモンド、レモン、チェリー、オレンジ、ミカン、シトラス、ビンダッル(シトラス系)、ゴールド、カカオ、ベエンディキ、バナナ、ミントのリキュールが製造されていた。
(「遅すぎる、建物は壊されたのだ…。このコラムが何の役に立つのか?」と言う人がいるかもしれない。しかし、『メジデキョイ・リキュール工場の建物は、その土地より貴重』というタイトルのコラムが、2008年5月7日の本欄に掲載されている。有名建築家のドアン・テケル氏が「建物を壊してはいけない」と警告を発し、関係者の注目を集めようとしたのだ。つまるところ、関心を寄せるものがいなかったということだ)。
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:山根卓朗 )
( 記事ID:26534 )