アマスィヤ観光に、新スポット
2012年08月11日付 Radikal 紙


物語『フェルハッドとシーリーン』でフェルハッドが恋人に会うために堀り、町に水をもたらしたとされる山の下に、恋人たちのための結婚式場や有名な恋人達の像が展示される博物館が建設中である。

アマスィヤ市は、フェルハッドとシーリーンの恋物語が語り継がれているハルシェマ山で、約2500㎡の土地で市の観光経済の活性化につながるとされるプロジェクトを進めている。 そのプロジェクトでは、フェルハッドとシーリーンのかなわぬ恋をテーマとしている。
何世紀にも渡って語り継がれている伝説によると、アマスィヤの統治者であるヒュルムズ・シャーはフェルハッドに、シーリーンに会いたければ山に穴を掘り、このアマスィヤの町に水を引くよう要求した。フェルハッドは水路を掘ったが、それでもシャーは二人の恋人が結ばれるのを邪魔しようと、シーリーンが死んだという知らせをフェルハッドに伝え、それを聞いたフェルハッドは亡くなってしまう。また、シーリーンもその後短剣で自ら命を絶つというお話である。

■2013年2月14日開館予定

プロジェクトは、こういった伝説をもとにしている。約2500㎡もの土地を利用して進められているこのプロジェクトは、フェルハッドとシーリーンの愛の地とされているハルシェマ山の、アマスィヤートカト間の道路脇にあるフェルハッド・アラスという場所に建設中である。その場所は、フェルハッドがシーリーンに会うために掘ったとされる6キロもの水路の一部にある。
このプロジェクトの興味深い点の一つは、全体のうち約1000㎡の部分が山の真下につくられるということである。 ここには出会うことができなかった二人を偲んで、結婚式場の建設が計画されている。はじめはトルコ国内の、その後は世界各地の結婚希望者やまた新たに結婚式を挙げたい(再婚する)というカップルを視野に入れている。アマスィヤ市長であるジャフェル・オズデミル氏は、このプロジェクトを聞きつけた人々の中には今から予約を取り始めている人もいると語っている。市長はこのプロジェクトのオープン記念日をバレンタインデーにあわせて、2013年2月14日とするとしている。

■恋人達も地中へ

このプロジェクトの他のみどころは、山の真下にある博物館である。博物館には、フェルハッドとシーリーンをはじめ、アナトリアで語り継がれた物語に登場する恋人たち、つまりレイラとメジュヌン、ケレムとアスルのような恋人たちの蝋人形が展示される予定である。また、アナトリアを舞台にした恋物語の本や口承から、それにちなんだ様々なものを作り、展示する予定である。また同時に、このプロジェクトの場所とフェルハッド水路を直接結ぶ通路ができる予定である。このプロジェクトのもう一つの柱は、地上に巨大なフェルハッドとシーリーンの像を設置することである。どのような像にするかを決定するためにコンテストの開催が計画されている。

目標は200万人の観光客

アマスィヤにはたくさんの歴史遺跡や自然があるにも関わらず、残念なことに観光の分野で十分に生かし切れていない。そうしたアマスィヤ(の人々)にとって、この「フェルハッドとシーリーン」プロジェクトは重要な試金石となることが期待されている。市を訪れる観光客の数は、10年前に比べ約4.5倍上昇し40万人に達したとしても、市が持つ観光のポテンシャルと比べると、本来期待できる数よりもはるかに下回っている。
ジェフェル・オズデミル市長は、このプロジェクトをはじめ他の諸活動を通して、観光客の数をまず100万人に、その後200万人にすると述べ、こう付け足した。「現在、アマスィヤはオランダを中心としてヨーロッパ、アメリカ、日本、アゼルバイジャン、ロシアから関心をよんでいる。私達が目指すのは、目標とする観光客数の半分を外国人とすることである。」

■伝説は何を語り、科学はこれに何を言うか

伝説によると、アゼルバイジャンのエルゼンという町の統治者であるメフメネ・バヌは、妹であるシーリーンのために東屋をこしらえ、その飾りつけを画家であるフェルハッドに命じた。フェルハッドはシーリーンに恋をし、シーリーンもまたフェルハッドが好きであった。しかし、彼らが一緒になることは不可能であった。フェルハッドはアマスィヤの統治者であるヒュルムズ・シャーに助けを求め、その2人の統治者は戦争をし、メフメネ・バヌが敗れた。こうして、シーリーンをアマスィヤにつれて来ることができたが、シャーの息子もシーリーンに恋をしていた。シャーは、解決策として、フェルハッドにシーリーンと一緒になりたいのであれば山を掘り、町に水を引くようにといった要求をした。フェルハッドは山を掘り、水路は完成間近であった。
そこでシャフは、シーリーンが死んだという偽の情報をフェルハッドに流し、それを聞いたフェルハッドは、山を掘っていた槌矛で自殺をし、シーリーンも短剣で自ら命を絶った、という。
しかし、科学的分析によると、6kmに渡る水路は、ヘレニズム時代後期からローマ時代初期のものである。水路は、トンネルを掘り、壁を作り、傾斜を計算しつくしたバランスシステムによって作られたものである。

(本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介
されています。)

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( 翻訳者:入口 愛 )
( 記事ID:27327 )