PJAK(イランのPKK関連組織)メンバー、驚愕の証言
2012年11月22日付 Radikal 紙
エルズルム第二重罪裁判所で、「武装テロ組織のメンバーであった」という罪で5年から10年の禁固刑を求刑され、裁判にかけられているPJAK(イランのPKK関連組織)メンバーのアフメト・ギュレシュが、驚愕の証言をした。
北イラク・クルド自治政府とイランが同組織に与えてきた便宜について裁判で証言したアフメト・ギュレシュは、「イラン情報機関は一度に少なくとも200から300丁のカラシニコフ拳銃、ビクシー、カナス、ロケットランチャー、弾薬、手榴弾をフネル(Xıner)に10キロの距離にあるPKKの衛兵所で渡していた」と話した。
トルコからイランに18年前に行ったと話すアフメト・ギュレシュは、タクシーで(所持し、運んでいた)武器や爆弾を押収され5年間服役し、出所後、ギュルブラク国境検問所でトルコ側当局に引き渡されたと話した。2012年5月23日にドーウベヤズィットで逮捕された「シェクソ・テルジャン」というコード名のアフメト・ギュレシュは、今年9月の公判で、1994年にカニ・ユルマズから受け取った30万マルクでドイツからタプランに入り、そこから同組織のウルミエ・キャンプに行き、お金をルザー・アルトゥンに渡したと説明した。
イランとPKKとの密約により、イランで降伏したものはPKKに引き渡されていたと話すアフメト・ギュレシュは、「私はイランのシェヒダン、2003年にはケラレシュ・キャンプで組織のために関税をとっていた。アルメニアへの密売人をしながら、イランへ人を送ったり、連れてきたりしていた。組織幹部の堕落した関係(馴れ合い)や新たな参加者に責任が与えられるなどの矛盾に嫌気がさし、組織から離脱した」と話した。
■「イラン情報機関は、PKKから来る人全員を出迎えていた。」
エルズルム第二重罪裁判所で今日行われた公判で、裁判官からの質問に答えたアフメト・ギュレシュは、イラン当局と組織との関係について、以下のように話した。
「1994年に私がイランへ行った際に、空港でイラン情報機関の正式職員が出迎えてくれた。正確には、イラン情報機関は、PKKから来る者全員を出迎え、関係個所に案内している。イランには、PKKの「公邸」がある。イラクから密輸ルートを使って家畜が運ばれていた。密輸される山羊、羊や牛から、組織は3%の関税を徴収していた。現在もこのシステムが続いているのかどうかは分からない。
1996年にユクセコヴァ側のクルド語名でヴァルンゲミナンに駐屯していた軍の詰所が襲撃され、この詰所から他の物とともに、サーモカメラが没収された。サーモカメラは、当時組織のイラン人責任者のムスタファ・カラスの手に渡る。これを知ったイランの情報機関は、このカメラを渡すように要求する。ムスタファ・カラスが渡さないと、イラン情報機関は、「病院を閉鎖するぞ」と同組織を脅しながら、カメラを入手する。私が知っている限りでは、イスラエル製のサーモカメラと同じ物をイランでも生産している」
■「行方不明の軍人たちは、崖から飛び降りた」
シェムディンリで1996年にPKKが詰所を襲撃した際、降服することを拒んだ40人の兵士が崖から飛び降りたと主張するアフメト・ギュレシュは、以下のように説明した。
「シェムデェンリのイラクに近い側にある軍の詰所に、1996年にエクレムというコードネームのフゥドゥル・サルカヤの指示で攻撃が仕掛けられた。この攻撃で40人の兵士が行方不明であるといわれ、イラン軍に渡されたと指摘されていた。しかし、我々が聞いたところによると、兵士たちは、降伏を避けるため、崖から下へ飛び降り、命を落としたと聞いている。」
PKKのリーダーであるアブデュル・オジャランが1999年に拘束された後、イランのPKK組織が、トルコへの攻撃を続けさせようとしていたと話すアフメト・ギュレシュは、「イラン政府と情報機関は、我々に執拗に、「停戦するな。トルコと戦え」と脅していた。キャンプを閉鎖するとまで言っていた。私の想像だが、1500人の組織関係者が、北イラクへ行かざるを得ない状況になった。イラン政府は、「どうせ仕事をしていないのだから」と言いながら、シェヒダン・キャンプで戦争を始めさせた。率直に言うと、「戦わないのであれば、キャンプから出て行け。」と言われた。これを受けて、キャンプにいた300人のうち、60人が残った。私もこのうちの1人である。キャンプを離れた者たちは、イラン政府の車両で、北イラクまで連れて行かれた」と話した。
■「病人は、アルメニアとバルザーニ病院にいる。」
PKKの重病人はアルメニア及び北イラクのバルザーニ病院で治療を受けていたと話すアフメト・ギュレシュは、以下のように証言した。
「PKKは、アルメニアに2件の協会と1件の2階建ての家を持っている。これらの建物は、アルメニア情報機関から5〜6メートルの距離にある。この家は、普段は、組織のメンバーの治療のために使われている。重症の者はアルメニア、軽症のものは北イラクのバルザーニ政府の病院で治療を受ける」
アフメト・ギュレシュは、イラン及びイラクが自分たちに武器や機材を支援したと述べ、「メスット・バルザーニ及びネジルヴァン・バルザーニの配下の者たちは、バルザー二の指示で直接やって来て(私たちと)会っていた。イラン情報機関は、一度に200から300丁のカラシニコフ拳銃、ビクシー、カナス、ロケットランチャー、弾薬、手榴弾を持って来て、組織に渡していた。これらの引き渡しは、フネルから10キロほど離れたところにあるPKKの衛兵所で行われていた。金額としては、約500ドル受け取っていた。この売買は、1998年から2003年の間にもフネル・キャンプで見た。イラン政府がトルコの親友であったとこは一度もない」と話した。
アフメト・ギュレシュは、「組織の中で最も多いのはトルコからの参加者だ。ヴァンを経由して連れて来られ、参加者の80%は村落警備隊員が同伴する。組織は、当時の無所属の国会議員を嫌っていた。組織は、これら国会議員のうち一人をリーダーとして、その人物にのみ会うのであり、政治家たちを信用していない」と話した。
裁判所は、アフメト・ギュレシュの拘束の継続を決定し、公判を12月25日に延期した。
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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:28315 )