パリで殺害のPKK創設メンバー・サキネ・ジャンスズとは誰か?
2013年01月10日付 Hurriyet 紙


サキネ・ジャンスズは、PKKの創設メンバーであり、初期にオジャランと対立したメンバーのうちの1人だった。オジャランは当時この状況を「サキネの陰謀」と呼んでいた。

「1958年トゥンジェリ生まれ」と戸籍に登録されているジャンスズは、長い間ヨーロッパで生活していた。フィダン・ドアンは、現在ヨーロッパに住んでいる、解党した国民労働党(HEP)のヴァン選出議員であるレムジ・カルタルの秘書やアシスタントを務めていた。

夜中1時頃発生した殺人事件は、謎に包まれており、今後事件の解明が期待されている。

イムラル・プロセスが開始されたこの時期にアブドゥラ・オジャランに関して詳細を知っているジャンスズが殺害されたことは、組織内で議論を生むであろう。

■サキネ・ジャンスズとは誰か。

サラというコードネームのサキネ・ジャンスズは、PKKの創設に関わっていた。トゥンジェリ出身のジャンスズは、その後、グループの創設活動に参加した。エラズーとビンギョルで活動していた。1978年にディヤルバクルのリジェ市にあるフィス村でPKK創設者に名前を連ねるジャンスズは、1980年の軍事クーデターで逮捕され、ディヤルバクルE刑務所に投獄された。世界の劣悪な10の刑務所の中に入るディヤルバクル刑務所に投獄されていたジャンスズは、1980年代に初めて政治的弁護を行ったPKKの女性となった。刑務所での抵抗により、PKK内で伝説になった。1990年代には、釈放された後、ベッカー渓谷へ行った。長い間、オスマン・オジャランが指揮を執っていたゼリ・キャンプにいたジャンスズは、女性の組織化を進めた。しかし、1992年にPKKが戦争により500人の兵士を失った後、オスマン・オジャランは組織から責められ、影響力を失い、ジャンスズは、ムラト・カラユランによりドイツ支部の責任者を指名された。ドイツ支部の後は、フランスで組織化の活動を続けた。

アブドゥラ・オジャランが1999年に逮捕された後、捜査委員会への証言で、今回殺害されたサキネ・ジャンスズについて、以下のように話していた。「私は、女性組織を、男性の封建制度から解放し、強い女性を求めて、創設した。(そのために)多くの議論を行うよう指示した。サラというコードネームのサキネ・ポラット(ジャンスズ)の名前も覚えている。その任務から外れたサキネは、現在ヨーロッパにいる。フランス政府からパスポートを発行してもらっている。スカーフを被っている。信条や考え方は、党と繋がっている。」

■フィダン・ドアンとは誰か。

殺害された女性のうちの1人であるフィダン・ドアンは、クルド国際評議会(KNK)のパリ代表であった。

■過去の執行例

組織の中で、以前にもチェティン・ギュンギョル、メフメト・シェネル、カニ・ユルマズ、ヒクメト・フィダンが処刑されてきた。メフメト・シェネルは、組織から離脱し、新PKKの創設を試みたが、長い間PKKに追われ、カムシュルでPKKにより殺害された。セリム・チュルックカヤ、シュクル・ブルムシュ、セラハッティン・チェリキも以前にPKKとの意見の不一致により組織を離脱した。

PKKのヨーロッパ支部が、長い間、外国の諜報機関と緊密であったことが知られており、このプロセスがどのような結末を迎えるのか現時点では分からない。

■ボルシェヴィキ革命前のオフラーンカ(警察組織)の殺人

パリで起こった事件は、ロシアで革命前に警察組織であるオフラーンカの内部で起こった殺人を思い起こさせる。オフラーンカの情報員であったマリノフスキーとズバトフが情報の世界で新たな道を開くような計画を実施した。

ズバトフは、革命家の活動を防ぐためには、弾圧や警察の措置のみでは防げないと主張し、革命家の反対派を支配するために管理された組合を設立する考えを提案した。マリノフスキーやズバドフと同様に重要な人物として、イェヴノ・アゼフが挙げられる。ユダヤ系ロシア人の情報員であるアゼフは、超越した能力がかわれ、ズバドフによりオフラーンカへ入れられた。イェヴノ・アゼフは、1903年にロシア社会主義革命党の武器部門の責任者であったグレゴリー・ゲルシュンの暗殺を手配し、自分の仲間たちを組織に入れた。社会不安を加速化させ、不安定感を高めるため、1904年に内務大臣ヴァシレヴィッチ・プレヴへ、1905年にセルヘイ・アレクセンドロビッチ伯爵とペテルブルグ知事の殺害を組織化した。アゼフは、党の中央執行員として革命計画を企て、また同時にオフラーンカの情報員であった。

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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:28837 )