オスマン碑文プロジェクト
2013年01月17日付 Zaman 紙
右面の碑文詩句、中央のスルタンの花押が削られている
右面の碑文詩句、中央のスルタンの花押が削られている

アヤソフィア・モスクの近くにあるアフメト3世の泉の建設年を示す詩句は、スルタン・アフメト3世がつくったものである、すなわち、「アフメド・ハーンに祈れ、神への聖句を唱え、この水を飲め。」

スルタン・アフメド3世は、時の詩人達に、この対句に続く詩を書くよう命じた。詩人達は、すぐに筆を握るのだが、「水を飲め」という単語に押韻していくのは不可能だった。このため詩人のセイイド・ヴェフビーはちょっと工夫をして、「神への聖句を唱え、この水を飲め、アフメド・ハーンに祈れ」という形に変えることで問題を解決し、熟考して職人芸的な記年詩をかきあげた。この詩は泉に四方に、時の有力な書家の一人でもあったアフメド3世の書で彫られた。

もし、1927年にだされた全国の政府機関や公共建造物にあるオスマンスルタンの花押(トゥグラ)と碑文を破棄するという法が徹底的に適用されてしまっていたならば、この素晴らしい碑文は失われ、その上を風が吹いていたことだろう。

いつかイスタンブルのディーワン通りにいくことがあったら、フィールーズ・アー・モスクのほぼ正面にあり、今はトルコ文学財団におって使われているジェヴリ・カルファ学校の前に立ってみてほしい。顔をあげて碑文をみると、マフムード2世の花押は完全に、碑文の詩句の方は一部削り取られているのがわかるだろう。件の法律がでるやいなや、学校の校長は行動にうつり、花押と詩句を削り取りはじめた。この恐るべき蛮行を、博物館館長だったハリル・エドゥヘム氏がすんでのところでストップさせた。こうして一部だけ救われることになった碑文は、半分削られた状態で、ジェヴリ・カルファ学校の正面を、蛮行の証として飾っている。この件の詳細を知りたい方は、オスマン・エルギン著『ムアッリム・ジェヴデトの生涯・作品・図書館』(イスタンブル、1937)の254頁をみていただきたい。

こうして、スルタンの花押や碑文がどの程度削りとられたかは定かでない。だれか研究者がこれをとりあげ、一つ一つ確認してくれたらいいのにと思う。

碑文には、その建物が、誰が、いつ、どのような目的で作ったのかについての情報がきちんと含まれている。この観点から、一つ一つがそれぞれ独立した貴重な史料である。多くは有名な詩人、書家、彫刻職人の共同作品であるために、美術的価値も高い。それが設置される建物や場所に美的価値を加える碑文は、それゆえに文学や美術史の観点からも非常に重要である。モスク、マドラサ、隊商宿、ハマム、泉、給水所、墓所、墓石に素晴らしい碑文があり見飽きることはないだろう。

碑文についての研究は、ヨーロッパで17世紀後半に始まり、その後エピグラフィ(碑文学)と名付けられた学問を生み出した。トルコにおいて、この分野に取り組んだ最初の専門家の一人が、ジェブリ・カルファ小学校の碑文を完全な破壊から救ったハリル・エドゥヘム・氏であった。イスマイル・ハック・ウズンチャルスル、ルフク・メルル・メリチ、イブラヒム・ハック・コンヤル、ムバラク・ガリブ、エクレム・ハック・アイベルディといった学者は、後にセルジュク朝期、オスマン朝期の碑文研究で大きな功績を残した。

今日でも、オスマン碑文に取り組む研究者たちが存在する。イスタンブル・シェヒル大学のハティージェ・アイヌルとシカゴ大学のハカン・カラテケが2010年末に開催した「オスマン碑文シンポジウム」は非常に重要な出来事だった。東京[外国語]大学の林佳世子と共に「オスマン碑文プロジェクト」という素晴らしいプロジェクトを立ち上げた。もしあなたが時間を割いて「www.ottomaninscriptions.com」にアクセスしてみたら、素晴らしいサイトに出会うことになる。見たい碑文の写真、原文、現代語訳に触れることができるのだ。

東京[外国語]大学とトルコ歴史協会が支援するこのプロジェクトのおかげで、オスマン碑文が記録に残されることになったばかりでなく、研究者にとっても非常に有益だ。関係者を心から祝福したい。

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( 翻訳者:山根卓朗 )
( 記事ID:28919 )