死去のメフメト・アリ・ビランド、伝説の番組「第32日」
2013年01月18日付 Radikal 紙
28年間続いた伝説の番組「第32日」でテレビの報道番組の大物となったメフメト・アリ・ビランド氏は、昨日(17日)72才で人生に別れを告げた。ビランド氏の葬儀は、土曜日の正午の礼拝後にテシュヴィキエ・モスクで行われる礼拝後、家族の墓地に埋葬される。
メフメト・アリ・ビランド氏は、1970年29才のときに、のちに妻となる当時の恋人ジェムレさんに書いた求婚と一種の「自己批判」の手紙に次のように書いたという。「恋人よ、ここ二日ばかり自分のこれまでを振りかえってみた。どこから来て、どこに行くのか、と。難しい時期もあったよ、ジェムレ。たぶん、父がいなかったからだろう。望んでいたことの多くを手にした。だが、まだまだやりたいことがある。僕は、時に超現実主義者、時に現実主義者、時にロマンチスト、時にうそつき、時に正直もの、時にいい人間であり、時に悪人でもある。力が大事だと思う。常に、パワー(力)をえるために戦ってきたのだと思う。たいがいは勝ち組になっていたと思う。しかし、誰かをつぶすための力という意味じゃない。上を目指しているんだ。トップに立ちたいと思う。どこでも、いつでも、自分自身であることが望みだ。変わり身が早いとも思う。よくいえば、自己変革ができる。硬直した、視野が狭い人間ではない。」
「自己批判」の文はまだ続く。「1951年12月9日に、ドイツ病院で生まれたのち、だんだん大きくなった。小学校は、エレンキョイ・ズィフニパシャ小学校を終えた。子供のころとは、母親は神経質だった。ガラタサライ(学校)に通った。サバイバルのために、「戦い」と「身のたけ」の間の葛藤のなかでもがき苦しみ、上のクラスをめざした。頭にいつもあったのは、「勝つんだ」という考えだ。何がなんであれ、勝つ、と。すべてにおいて、勝つと。」 (中略)
高校時代に刊行した雑誌に広告をのせてもらうように、アブディ・イペクチ氏[注:当時のミッリイェト紙名物編集長]に会いに行った。なんとか、コネをつけたミッリイェト紙の扉が閉まらないようにと、あらゆる機会を利用した。しかし、大学に入ると、それをあきらめた。このころ、いろいろと工夫をし、(のちに)イギリスでの手術費の出費などで常に彼の庇護者となる(大富豪の)ヴェフビー・コチ氏と知り合った。ヴェフビー・コチ氏の支援で、ふたたびアブディ・イペクチ氏と近づきをえた。23才で、(ミッリイェト紙国際面担当の)サーミー・コーエン氏のもとで働きはじめた。そして、外信部で、小さいけれどきらりと光る記事をかき、その一方でミッリイェト紙のオーナー、エルジュマン・カラジャン氏の義理の娘ジェムレさんを、彼自身の言い方でいえば「たぶらかす」ことに成功した。
■伝説の番組「第32日」
ビランド氏はいかなる妨害に負けず、積極的に取り組んだが、すべてのニュース報道でそのようにいったわけではなかった。しかし賢く、巧妙に、なんとか切り抜けてきた。例えば、キプロス問題が最もセンセーショナルな時期に、新聞社にアテネから送ってきた記事「アテナはノーと言っている」というニュースについてイペクチ編集長が裏付けを取りたがったため、非常に現実的な方法を見つけ出した。まっすぐAP通信に向かった。ミッリイェト紙の記事をAP通信に提供したのだった。「私はトルコ大使から聞きました。はっきりした情報です『合意は停止』と報じた。次にロイター通信に向かった。そこでも同じことをいった。その後、世界的な通信社は、トルコとギリシャの合意について(ギリシャ首相の)マカリオスが拒否権を発動しようとしているというニュースを流し始めた。ビランドは自分のニュースは自分の手で裏を取ったのだ。
その後、約20年滞在することになるブリュッセルに妻のジェムレさんと共に定住するよう決めた。海外から絶えずニュースを流し新聞の大見出しを飾った。キプロス紛争の際は、コジャテペ事件が、トルコ軍の失敗であったと報じた「白熱の30日」で、出版とドキュメンタリーを撮り始めた。1980年のクーデター後、アブディ・イペクチが暗殺されたため、ミッリエット紙の編集長を希望しオファーももらっが、実現しなかった。
この頃に、トルコの様々なジャーナリズムの出発点、そして多くの若者がジャーナリズムに憧れる原因となった報道番組、「第32日」のが始まった。
謎につつまれていたソビエトについて解説し、サッチャーやヤセル・アラファト、イメルダ・マルコス、メフメト・アリ・アージャらとのルポや、放送した特集番組で、人々を驚愕させた。自分で提案したミッリイェト紙でのコラムを担当し、軍とクルド問題に関して執筆を始めたが、その執筆は簡単なものではなかった。アブドゥッラー・オジャランへのインタビュー、「デミルクラト」についてのドキュメンタリー、そして軍から受けた圧迫やTRTを詐欺被害にあわせたといった話は、誰もがしっていることだ。
続いて、「第32日」はいろいろなチャンネルに移動していった。サバフ紙のコラム、そしていうまでもなく(スクープした)軍における「誓約書」問題がある。ビランド氏は幸いにも幸運と知性を兼ね備え、何度となく「焼跡」から立ち上がった。CNNトルコで始めたテレビでの活動はカナルD局で続いた。さらにポスタ紙に掲載したコラム記事もある。どちらとも死の最後の日まで続けられていたのだった。
ジャン・デュンダル氏のビランド氏の伝記本は、ビランド氏の病気の話ではじまり、病気の話で終わっていた。2011年2月11日に膵臓ガンであることが分かった。そしてガンの治療もした。しかし立ち止まることはなかった。「朝の抗がん剤療法の間、『2月28日クーデーター』のドキュメンタリーの文章を読み、その後、新聞記事を執筆し、少し眠ってから、夕方5時にテレビ局にいき、自分のニュースに興奮して夢中になった。その後スタジオから「死人のように」くたくたになって帰って行った。ある時このようなテンポについていけず、番組が終わってからスタジオのセットの真ん中で吐きはじめた。このようなテンポで約2年、ある時は調子が良く、ある時は調子が悪いなか続けた。なぜならばまだすべきことがあったからだ。最近の計画は1915年(のアルメニア「虐殺」事件)のドキュメンタリーだった。おそらく、自分ではもうできないが、自分が育てた生徒たちに確かに遺言として残したことは明らかだ。
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( 翻訳者:富田 祐子 )
( 記事ID:28986 )