ボアジチ大学でパムク&エーコ講演―作品と作家との関係
2013年04月09日付 Hurriyet 紙
ボアジチ大学にとって昨日は歴史的な一日となった。大学創立150周年を祝して、世界的に有名な小説家でありボローニャ大学教授であるウンベルト・エーコ氏とノーベル賞作家オルハン・パムク氏が「歴史、空想、真実に関する対話」という題目のシンポジウムのために相会した。アズィズ・ネシン氏が触れた60%という数字について、イタリア人作家のエーコ氏は「全ての人とは言えないが、50%の人はバカであると考えている。全ての人をバカだと思った時、安らかに眠ることができるだろう」と話し、会場を沸かせた。
シンポジウム主催者のパトリジア・ヴィオリ氏によれば、作家本人が小説[で登場する人物とどれほど]平行するものか、また描いた場面についても、こうした話題は三つのテーマでくくることができる。作家・読者の純粋さと豊かな感受性[の問題]、小説に[登場する]人物と作家が描いたものにはどれほど作家本人が反映しているか、そしてコレクションやリストの必要性、この三つである。
はじめにエーコ氏が、小説の読者に関して二つのレベルがあると説明した。彼によれば、第一レベルの読者は純粋で感受性が豊かである。読んだ内容が事実である と信じ、物語のクライマックスで判明する事実に驚く。第二レベルの読者は物語の結末を知っていたとしても読み続け、物語の構造と事件がどのようにつむぎ出されるかを追い求める。こうした読者は感動しないが、他人を感動させることができるという能力の点で作家に対して感心する。
パムク氏も読者の間にはこのような差異が見られるという。しかし彼によれば第二レベルの読者は自らを第一レベルの読者よりも上だと考えているという。小説を読 んでも第二レベルの読者自身は感動したり興奮したりしないが、第一レベルの読者がなぜ感動したのか、どの場面に興奮したのかを理解するために読んでいる。この こともまた、氏によれば小説の力の源を構成している。つまり小説は、互いに異なる、もしくは矛盾する理解や感情を同時に起こす可能性によって支えられている。これもまた我々に小説[における作家本人の]個人性についての問題を投げかける。
■ボアジチ大学の150周年記念シンポジウムに関心が集まった
パムク氏は小説を書く際にこの矛盾する知的状態を作りたいのだと言う。『無垢の博物館』の主人公であるケマルに触れ、人々がパムク本人に「ケマルはあなたか?」と問うこと、またケマルが空想上のキャラクターであることを説明したいと語った。「個人性のないものは書けない。そもそもどんな類の小説を書いたとしても、個人性は作家本人の証拠なのだ」とパムク氏は話す。それに対してエーコ氏は、自身に関するヒントを与えることをひどく恐れているため、小説では常にナポレオンの後ろに隠れようとしていると話した。「以前、小説における最も個人的な局面はなにかと尋ねられたときは、代名詞であると答えた」という逸話は会場を沸かせた。
作家たちが議論した最後のテーマはリストとコレクション作成に関する関心についてであった。パムク氏はコレクターの多くが男性であり、その原因は「世界の所有者になること」への興味だと話す。『無垢の博物館』という作品はそもそも美術館にある所蔵品リストがある逸話と互いに結ばれることだと話した。「リストは小説家にとって必要なものである」と話すパムク氏は、これを作成する時に人間的な一面が存在すること、エーコ氏がこれを「リストの詩」と言ったと語った。エーコ氏もまた、未来を知ってしまうことで構成される小説『フーコーの振り子』の結末では、ある種のパラノイアが存在することに触れ、似たような手順を利用 していると説明した。
作家たちへの最後の質問は「なぜ小説を書いたか」であった。パムク氏は「部屋で一人で過ごし、同時に人に認められもしたい」と話した。エーコ氏は世界に存在するあらゆる種類の情報の流れは叙述を通じて実現されていると強調し、「大学で論文を書き提出した。するとある教授が「君は論文ではなく、論文をど のようにして書いたのかという小説を書いたのだ」と批判した。その日から哲学書のような小説を書き始め、そしてついに小説を書くことを学んだ」と語った。
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( 翻訳者:白鳥夏美 )
( 記事ID:29650 )