イスタンブル県知事とデモ代表若者の対話集会、徹夜でつづく
2013年06月14日付 Radikal 紙


かなりの人が次のように言うことができる。:「昨日は知事と一晩過ごした。ムトゥルさんと夜中にドルマバフチェで会った。別れた時には朝だった。」

ほとんどが20代前半の150人近くの市民が昨日、自分の町の知事と一晩過ごした。少し変に聞こえる。携帯電話の番号をツイッターで知らせた後、イスタンブルのアヴニ・ムトゥル県知事の携帯電話はロックされたという。秘書はある時鳴っている携帯電話を開くと、4人の異なる人の声が聞こえたと言っていた。それ程だ・・・。ムトゥル県知事は時々牧歌的で、抒情的なメッセージを投稿して使いこなしているソーシャルメディア上である発表をした。これは「環境保護主義者の若者たち」への呼びかけだった。最初は「公園で会いましょうか、それとも外にしましょうか」という形での意思表示だった。しかしその後約束をすることとなった。夜の12時にドルマバフチェ宮殿で、だ。

ちょうどその時間、ドルマバフチェ宮殿の門にはカメラがずらずらと並んでおり、こちらの方が多かった。最初の40人のグループはとっくに中の事務局にあるカフェに通されていたようだ。その後さらに同じくらいの人数のグループが次々と中に通されていった・・・

■「介入はないと言ったはず」

知事はチャイやコーヒーからピザ、果物に至るまで家のバルコニーで客をもてなす家主のようだった。何度もこの会合の重要性や人々がお互いの話を聞くことのメリットに触れた。これをただの戦略だと言う者もいるだろうが、本当に朝の5時まで関心を持って聞き続けたのだ。しばしば投げかけられる直球の質問にもいかに対処するかを熟知しているほど経験のある首長だった。このことは容易に推測できる。

ヘルメットを着けて来た人や、ポケットにマスクを入れてきた人、私のような鞄にお酢を入れて来た人もいた。ほとんどは学生だ;チャーラヤンで起こったことについて質問した弁護士も答えを得た。医者もだ。12歳の娘とともに来た店主もいた。子供と一緒に毎日遊び半分で「ガスを吸いに」行く母親も。

どんな事を話したのか。家は保守的・国民主義だと言う若い女性は、「もう我慢できない」と思うに至った経緯や、ある日仕事の制服のままタクスィムに来たことを説明した。彼女は自分を変えるきっかけとなった首相に感謝した。知事は、「あなたがそのように感じているのなら、我々の意思決定のメカニズムに表現の自由の適用の観点で問題があるということだ。私たちはここから教訓を得なければならない」と答えた。

知事は出口でカメラを見て、公園から人を追い払うことについて触れるひとたちのことを思い出していたかもしれない。しかし中では「何も得ずに公園から出て行くと思いますか」との質問に、「誰一人負けたと感じることなく、全員が満足して出て行くことを望んでいる」と言っていた。「それでは、私たちがあの公園から出ていっても他の場所で集まるということは分かっているのですか。私たちはもう知り合ってしまったのですから」と言った女性がいたことも付け加えよう。

何度か同じことばが繰り返された:「もう介入はない、とツイートしましたよね。でもその後・・・」頭から催涙ガスを被った人たちや、友人がけがをした人たち・・・これは、知事にしっかりと責任を取ってほしいと多くの人が思っている話題だった。質問者の声がとぎれとぎれになり、手も震えるほど、大きく信用が揺らいでいたようだ。知事にとっても答えるのが難しい質問となった。例えば、「私が介入はない、と言ったのは、警察が公園に入って『さあもうここから出なさい』と言うことはない、ということだった。周りから撒かれたガスは当然中に影響がある。これについて弁解するわけではない。当初の狙いとは異なる状況だった。正式な謝罪は行う」と言った。

この後、結局催涙ガスについての長い長い議論が始まった。一方では夜になり気温が下がったことにより、海の上に霧の雲がどんどん大きくなりながらうごめき、他方では催涙ガスについて話し合っている・・・。「ターゲットを監視しながら発射する」、「殺そうとしているかのように催涙ガスを撒く」、「ヘルメット番号を記録する」、「暴力を振るう」警察の話題に知事は非常に困窮した。

取り調べの話題で話は「火事現場」、内務省の調査にも及んだ。「持っている写真を全て渡してください」と言ったら、どれほど現実味のある呼びかけになるか。これは参加者たちのフォロワーによっても、知事のフォロワーによっても示されるでしょう。なぜ誰も解雇されないのか、なぜ自分の権限下にある催涙ガスがこれ ほどたくさん使われることを許可したのか、という質問には、「はい、ガスを発射した人にも吸った人にも不快な思いをさせています」というような、あまりはっきりとしない言葉で、権限の制約の下で答えた。特にある医者が、細胞を破壊し、発癌物質を含んでいることが知られている催涙ガスの使用について「お願いだからやめさせてください。結果はあなたに責任があります」と警告すると、デモのために催涙ガス以外の他の原料について調査が行われたと述べた。「疎外されたグループや非合法組織のメンバー」に特有のこの新たな材料は「沈黙の夜警」という名の、短期的な麻痺の引き起こす電磁波装置だっただろうか。 いや、私は質問する権利を、自分が答えを得ようとお互い潰し合う抗議者たちに託していたのだ。私は質問しなかった。

■疎外された側と他者

知事は「ならず者」や「飲酒者」に関して首相は誤解されていると言ったが、これはおそらく知事が誰も説得できない話題だった。
何度か聞かれた「辞任を考えたことはありますか」との質問の退屈な答えは、割り込んできた「辞任していれば英雄でしたよ」「皆さん煽るのはやめましょう」 といった応酬により、いっそういきいきとした。知事はその後にこにこしながら「ほら、ガスの危害について話し合っているのですよ」と言った。

ムトゥル知事は一度だけ、おそらく大事な電話をするために10分間席を離れた。知事が出ていく際、「アンカラ知事にも電話してくれませんか。アンカラ知事は今家にガスを撒かせている」と誰かが叫んだ。アンカラで続く警察の暴力に触れた人もいた。

5月31日に指示を出したのは誰か。ムトゥル知事はトプチュ(砲兵)兵舎ではなく、遊歩道のプロジェクトで行われる予定だった道路拡張工事のことを知っていたが、介入が暴力的なものにならず、前もって市民に知らされるべきだったと述べた。彼からの非難は「ハラスキャルガーズィ大通りで60本の木が切られたときは何をしていたのですか」というものだった。何はともあれ、集会では、知事の「何があって、ある朝突然環境保護主義者になったのですか」との発言に対し、 数年の間にいくつも出た都市開発計画を中止させる闘いに触れた人が一人いた。

ところで、特に若い参加者たちには自分たちを「疎外された側」「組織のメンバー」と区別したがる論調が支配的だったと言える。一部の参加者が使っていた 「教養のある」「有能な」といった形容詞が印象に残った。自由は最も根本的な要求だった。オジャランの旗を見て不快に感じたと言う者もいた。その後「それなら草むらからどうやって政治をするというのだ」という者もだ。出口では次のような言葉を聞いた。「私は初めて自分のことを一人の人間だと、一人の女性だと、自由な人間だと感じています。クルド人から多くのことを学びました。公園でも一日中自分たちのスタイルでハライを踊っていて、私たちの顔に何かを投げつけるようなことはありません。これはすごく重要なことです・・・」

夜明け近く、多少の疲れから知事は2度言い間違いをした。公園での集会のため、「メールアドレスを教えましょう」と言おうとして「口座番号を教えましょう」と言った。辞任したら給料を回収しておくことを提案する者もいた。2つ目としては、誤って「この国の知事として」と発言した。意味ありげな笑いが起きた。これは初めてのことではなかった。

一人の政治家に、公式な権威者に見てほしい、聞いてほしいという強い思いがあるからなのか分からないが、特に若者の、かなり厳しい質問をする者の一部にさえ、終わりに近づくにつれ過度の思いやりが生まれた。雰囲気はムトゥル知事のツイートに似た。いろいろなことがあったが、重要な集会だった。記録に残されるべきだった。

知事は不平等にならないようにと最初に来たグループにTRT(トルコ国営放送)のカメラについてだけ許可を得た。その後民放のテレビ局もスマートフォンで生放送を録画しようとする者も多少議論を巻き起こした。おそらくこの映像が民放テレビ局に売られることを心配していたのだろう。最初の日からゲズィ公園を見ていなかったテレビ局に抗議するため、朝、あるグループの若者たちがペンギンの歩き方で門から出てきた。カメラが待ち構えていたからだ。

朝6時近くにゲズィ公園に行くと、一日が始まったようだった。首相との会合の結果が議論されていた。少し広場の方へ歩くと、数人が抵抗運動で亡くなった人たちのためのろうそくを取り換えていた。記念碑の前で夜の21時に演奏を始めたピアニストはまだ演奏を続けていた。すぐ隣では記念碑へのポスター貼付を阻止する任務を与えられた警察と5,6人が話していた。一人は「噴射するとき本当に45度を見ているのか」と聞いている。ある女性は、噴射するとき何を思うのかを聞いている。様々な答えが返ってくる。ある警察官は「そうだ、給料をもらっているのだから働かなければならない。当然のことだろう」と言っていた。 反対側にいる人は、「そうだ、私たちは皆働いている。あなたも自分の仕事をやっているのならそれはいいが、何のためにやっているのだ」と言っていた。その 時一人がシミットを持ってきて皆にふるまった。ピアノの演奏は続いていた。こんな朝となった。

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:30437 )