Can Dündar:14日―タクスィムの夜と、4時間の首相・芸術家面会
2013年06月15日付 Milliyet 紙
エルドアンは、「だれもかれも、私のせいにする。もう朝の3時だ。15時間もここにいる。まったく・・」といって、緊迫した会議を締めくくった。しかし、朝になると次の知らせがはいった。首相は、芸術家らの要請をうけいれ、警察が準備した、警察に対する17分の暴力ビデオの公開は見送られた。
信じられないような夜だった。昨日の夜中、タクスィムの真ん中で、アタテュルク像の下に置かれたピアノは、あたかも、ここまで長引いた問題のテーマ曲のように、たえることなくメロディーをかなで、周囲の若者らは踊りっている。母親たちは手をさしのべ、若者らと肩をくんでいた。
少し向こうでは、若者のグループがサッカーに興じ、階段の下では、ホロン(の踊り)が舞われている。この同じ瞬間に、2機の特別機でアンカラに向かった芸術家らの代表と、タクスィム連帯プラットフォームの代表は、解決のため、首相と4時間に及ぶ面会をはじめようとしていた・・・。
■ 「かってなことを・・・(Kız evi, naz evi)」
会見に3人の閣僚、顧問らと入った首相は、何日も続く面会のマラソンでくたびれてみえた。いらだっていた。
ある閣僚によれば、「10年来、どれほど大事な事件があっても、これほど長い会議をしたことはない。」
芸術家のひとりがこの緊張を和らげるため、「いい結果のために来ました。いい結果をえて、ここから帰りたいと思います」と、声をかけた。
首相は、和やかに話す気分ではないことが、その答えからみえとれた。
「娘のいる家は、わがままな家」とのことわざを口にした。
【Kız evi, naz evidir:年頃の娘のいる家族が、仲人に娘をいい婿をみつけるため、あれこれわがままな注文をつけること】
■「おっしゃる通りです、首相」
この芸術家らが、前日に面会したグループと違う点は、会議にタクスィム連帯プラットフォームの代表も加えることに成功した点である。
首相は、はじめて、この件で本当に連帯の相手をみつけたことになった。
そして、「おっしゃる通りです、首相」という(イエスマンの)言葉以外の言葉に耳を傾けた。
芸術家らは、面会の前に、イスタンブル市長とイスタンブル県知事をたずね、ゲズィ公園にもいっていた。タクスィムが、首相のいうような、「テロの巣窟」ではなく、楽しいフェスティバルの空間であることをしっていた。
首相が「トプチュ兵舎」へこだわりをすて、デモを支援する芸術家らを標的にしないこと、二極化をまねく発言をやめること、公園に警察隊が突入するということを一瞬たりとも考えないことを、望んでいた。
それだけでない;
首相と個人的に親しい関係にある、ある芸術家は、プライベートな生活に規制をかけようとすることを批判し、次のようにいった。
「かつては、『スカーフをしたければ家ですればいい』というような人々のことを何とかしようとしてきました。それなのに、今は、v飲みたければ、家で飲めばいい』とおっしゃっているではありませんか。」
■「陰謀だ」
しかし、首相は反発していた。
ある点では、デモ参加者の若者らと同じ考えだ。
「これは木の問題ではない。これは、エルドアンを抹殺するための事件だ」
これが、自分に対する世界的な陰謀であり、外国の勢力が自分を抹殺しようとしており、そして「ゲズィ事件がその一端である」と信じていた。ある閣僚の言い方では、、「首相が抹殺されようとしているのに、芸術家はだまっている」ということだ。エルドアンはゲズィ公園の環境派の真意はわかっているが、「地獄への道には、善意の石が敷き詰められている。」
■「(デモ側の)暴力のようす」
「警察の暴力について謝罪さえしてくれていれば」という求めに対し、「彼らは、私の家の前にきて、口をそろえて亡くなった私の母を侮辱し、壁に落書きもした連中だ。しかし、私の(AKPの)集会では、このような思慮のないことはしないし、させない」とし、「反対勢力の」暴力の実例を示した。
(サッカー・ベシクタシュ応援団の)チャルシュ・グループには「非合法で、過激な一派」がいることを説明した。週末に行われる(AKP支持者の)集会の中止の要望には、「それはない。選挙活動をはじめるのだ。しかし、ゲズィ運動が終わっていたら、そこで、この件は話さない」と述べた。
■「私がうそをつくというのか」
その後、警官に対する暴力を収めた17分間のヴィデオを見せた。激しい暴力シーンを含むこのヴィデオをみせながら、「この暴力については何もいわないのですね」と芸術家らに皮肉をいった。芸術家のひとりが、緊張を高めないこと、二極化を防ぐため、この種のヴィデオの公開をしないことを求めた。
■終盤の議論
首相側からの提案は準備されていた。
司法の判断を待つ、否決の場合は住民の投票へ。
そのあとはない。
終盤には、タクスィム連帯プラットフォームからのメンバーが、「この件は、社会学的な現状になった」というと、事態はいきなり緊張した。
立ち上がり、「みな、私のせいにする。朝の3時だ。15時間、ここにいる、まったく・・」といい、この緊張した会議を終わらせた。
■ヴィデオは非公開
これほど刺々しいものだったが、翌日、首相府から知らせが届いた。首相は、芸術家らの求めに応じ、警官への暴力を収めたヴィデオをメディアに公開するのを見送った。
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■ゲズィ公園の雰囲気
朝、3時半、芸術家代表団が首相府の門の前で会見を行っているとき、(コラムニストの)デルヤ・ザザクと一緒に私は、タクスィム広場のボレッキ屋で、ピアノコンサートをききながら、知らせが待っていた。
携帯電話の画面からみた(芸術家代表の一人)ハリト・エルゲンチの発言の冒頭は希望に満ちていた。
デルヤ氏は、号外のタイトルを、即座に決めた。タイトルは意味深だった。
「ゲズィ(抗議に)希望のある終焉。」
その後、朝4時にゲズィ公園に入り、皆の様子をうかがった。
ゲズィで人々の頭は混乱していた。
私を取り囲んだ何百人の若者は議論していた。一部は、「この弾圧的な状況が終わるまで、かならずデモを継続する」という一方、一部は、「得るものはえた」という雰囲気だった。それぞれに、自分の意見をいい、新しい意見は前のより、さらに新しい要望をもちだしていた。
私は、彼らに、「トルコに、信じられないような抗議の手本を示してくれたこと、望みの多くは受け入れられたこと、単に公園だけでなく、自由な将来の希望を芽生えさせてくれたことを」語った。
彼らの声は世界中に響き、首相に抵抗の広がりを理解させたことを祝い、亡くなった仲間を悼み、ゲズィ公園にコンクリートの脅迫が再現するなら再びここで会おうと、この行動を勝利の雰囲気のなかで中断することが、皆に希望を与える行動であると伝えた。
■自由で新しいが、しかし・・・
「ゲズィ運動」が新しく、自由な側面は次の点だ。
組織や、リーダーや、階層性がない。
PKKのように、リーダーの命令で国外撤去するような連中ではない。
その名は、「おれ様世代(ben nesli)」だ。
これは、民主主義の将来にとって大きな希望だ。
しかし、この種の危機の時には、決定の仕組みや代表制の必要性もある。。
決定を下すことがむつかしい。
実際、今後のことを決めるために、昨晩中行われた集会は、決定というよりも、議論に終始した。
集会に参加した78年世代は次のように、事態を要約する。
「首相が、「非合法の、マージナルな人々」と呼ぶような組織、「得るものはえた。さあ、撤退しよう」という人々。「無垢な環境派」といわれる若者らはといえば、向こう見ずだ。誰の言葉もきかない。「抗議、継続!」と叫んでいる。」
この新聞が印刷されるころ、まだゲズィ公園は混雑していた。集会は続いていた。昨日の明け方、デルヤ氏が、この状況を民主的な構造にふさわしく、若者たちと相談しながら決めた号外のタイトルは、今も有効だ。「最後に決めるのは、ゲズィの人々!」
(本記事は
Asahi 中東マガジンでも紹介されています。)
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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:30443 )