クーデターと民主主義
2013年07月07日付 Milliyet 紙

エジプトでの出来事をなんと呼ぶべきか?この問題は、エジプトでも熱く議論されている。しかしながらおそらくもっとも熱心な議論は、西洋で、より正確にはヨーロッパとアメリカで行われている。

私はヨーロッパ滞在中である。数日前にドイツにやって来た。エジプトにおけるクーデターとその後の進展をここから追おうとしている。何十年もの間理解し、学んでいた「民主的」とされる諸紙の報道の言葉や説明に対して驚いている。この態度は新しいものではなく、私も初めて出会ったわけではないが、皮肉がこれほどに過剰で、私の手に余ることに驚いている。

クーデターが実行された日、これをクーデターと呼ばせないための一連の常套句が作られた。おおよそ以下のように要約できる。
1)行われたことは軍事クーデターではない。なぜなら、軍が単独行動をしたのではなく、同盟を組んだうちの1組織として介入したからだ。
2)そもそも軍が政治に介入したわけでもない。大統領府に連れて行かれた将軍は1人もおらず、政府も兵士たちからなるものではない。
3)これはクーデターではなく、革命の続きだ。実際の通りや広場でデモを行なっている数百万人は、ムルスィーを退陣させ、職から追放することに成功した。大衆が軍に続いたのではなく、軍が大衆に続いた。せいぜい、「軍と国民と手を取り合い、革命を続けている」状況であると言える。

■説得力なき常套句

これらの議論を主張する人々と利用する人々でさえ、自分たちの言っていることを信じているとは思えない。では、発言者すら説得する力のない常套句はなんの役に立つのか?もしくは、このように言い換えよう。(クーデターという)定義付けは本当にそれほど重要だろうか?
確かに重要だろう。例えば、アメリカから見ると、定義付けは法的な結果をもたらす。軍の介入が「クーデター」と呼ばれるならば、エジプトに行われている、多くの軍事支出を含む支援の削減が必要となるのだ、アメリカの法律によると。
しかし、定義付けの問題が重要視されるということは、これが詳細の1つであると認めることができる。問題の核はここに横たわっているのだ、つまり。
定義付けは、そもそも支配権と支配の戦いという観点から重要性を持つ。正当性を作り出す戦略の鍵となる要素の1つなのだ、定義付けは。1つの行動に付けられる名前は、その正当性を明示することにおいて、とても重要な役割を担う。

■正当化は困難

今日、民主主義に明らかに反している活動を擁護すること、または正当化することはとても困難だ。しかし、まだ不可能ではない。結果的に、クーデターをクーデターと呼ぶために行われたクロバティックな試みが崩壊すると、クーデターを正当化するため、ほかの主張が取り上げられた。西洋においてそれなりに需要があり、トルコにおいても顧客が少なくないこの主張は、以下のように要約できる。正しくは、これはクーデターだが、強いられたクーデターである。
1)クーデターがなければ、国内で内戦が起こっただろう。
2)クーデターがなければ、ムスリム同胞団はイスラム主義体制を作っただろう。
3)クーデターがなければ、厳格な体制が作られ、民主主義は永久に不可能なものになっただろう。

■クーデターというものをよく知っている

これらの理由はそれぞれ、説得がとても困難な価値観の、最終的かつ最も有効な保護者としての任務を軍に与えている。軍は、第一に「社会の平和」の守護者であり、保証人である。第二に、「世俗主義」の最も(あるいは唯一の)強固な保証であり、第三に、民主主義の創始者かつ守護者である。
クーデターの試みがもっとも進んだ国の1つであり、更に私にとってはその筆頭であるトルコで暮らす我々は、この議論が何を示しているかをとてもよく知っている。正確には、知っていなければならない。我々の社会は、クーデターがあらゆる観点から破壊的な結果を生み出すこともまた、一番よく知っていなければならない。
これらすべてに反し、1つの主題として、軍を手段の1つとして捨てられないと認めることは、自分と社会を侮辱するということだ。この理論は、オリエンタリズムの最も濃厚に反映した、「イスラムは民主主義と相容れない」、「ムスリム社会において民主主義は機能しない」という理解と同じ扉に通じる。
最終的にクーデターの後何百万もの人々がムルスィーを支持し、クーデターに抵抗するため広場に出ると、「イスラム諸国において民主主義は可能なのか」という問いが、西洋のメディアにおいて再び主張され始めた。もちろん、このような文脈で問題を提起されれば、答えも事前に与えられていたものとなる。「ムスリム社会における民主主義はこの程度だ!このあたりではクーデターも起こりうる。奇妙だと思ってはいけない。」

■皮肉のソース付きの逃げ場

クーデターを正当化するため作られた主張が崩壊すると、残る逃げ場は皮肉のソースにひたされたオリエンタリズムのみとなった。
確かに、エジプトにおける進展に関しては多くの事柄が議論されている。しかしながら、前提において合意に達することなく、議論を民主主義の軸で取り上げ、民主主義の目的に向けさせることは不可能だ。
この前提の要約は以下のとおりだ。民主主義は、軍やクーデターによってではなく、民主主義の体験の中でのみ学ばれうる。そして民主的な政治の戦いによって定着する。このためエジプトに対し、1年でさえ過剰と見られるアプローチの、民主主義への信用や依存を深く疑うべきである…。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:30724 )