イラン・バレーボールを彩った外国人コーチたち(1):第二次大戦占領下で
2013年10月15日付 Jam-e Jam 紙


【ジャーメジャムオンライン・スポーツ版】

※訳者注;イラン男子バレーボール代表は、近年、現監督ジュリオ・べラスコのもと躍進を見せ、イラン国内を沸かせている。2011年、2013年にアジア大会で優勝したほか、2013年バレーボール・ワールドリーグの予選リーグでも健闘した。
右の写真は、2013年アジア大会優勝の表彰台にのぼった男子代表選手ら。


 バレーボールは第二次世界大戦による荒廃、および、イランの人々が戦火と貧困、飢餓に苦しむ中で、平和を示す存在だった。このスポーツは設備の整った体育館を必要とせず、プレイヤーらは占領下の市街地の廃墟のかたわらで試合を楽しんだ。時には、連合国の兵士らから成るチームと対戦することもあった。

 イラン・バレーボールにおける外国人の最初の足跡は、第二次世界大戦中のイラン占領下での連合国軍の存在に見ることができる[※イラン北部にはロシア軍、南部にはイギリス軍が駐留していた]。第二次大戦下での、連合国軍によるイラン占領は、イランのスポーツ、特にバレーボールと連合国軍の兵士らの交流をもたらしたのである。
 初めて行われたのは、イラン・チームが[カスピ海沿岸の]アンザリー港でロシア軍と行った試合であった。戦争とイラン占領を通じて、バレーボールの国際的な親交と関係樹立の礎が用意されたのである。

こうした関係ができるよりもはるか以前、イランにバレーボールが入ってきたのと同時期の1299年(西暦1920-21年)に、ミールザー・メフディー・ヴァルザンデ[イラン代表の初代監督]がバレーボールの分野で海外との関係を取り結ぼうという機運を作り出した。1302年(西暦1923-24年)には欧米のスポーツ雑誌から、バレーボールの競技規則の一部がペルシア語に翻訳され明文化されると、1304年(西暦1925-26年)には、イランでバレーボールがより広く普及するようになったのである。

 連合国軍によるイラン占領期には、多くの若者がイラン軍と連合国軍の間で行われたバレーボールを通じて、この競技に引きつけられた 。こうしてバレーボールは、人々のエネルギーをひきつけ社会の多くの若者たちの大きな歓迎を受けたのである。

 ちょうどその頃、ロシア軍チームがイラン・チームに敗れ、バレーボールはイランでより大きな広がりを見せるようになった。 その当時、イランにバスケットボールをもたらしたのは、トルコの大学で学んでいた大学生の若者フェレイドゥン・シャリーフザーデだった。彼は留学中にトルコのクラブ・チーム《ガラタサライ》でプレーしており、やがてイランの若者たちに国際的な関わりを構築する道筋を示したのである 。

 「バレーボール競技規則」がズィヤーゥッディーン・シャーデマーンによって翻訳されたことで、[イランにおける]バレーボール競技はその成長を続け、西暦1959年には国際バレーボール連盟(FIVB)に加盟した。これ以降、国際社会でのバレーボールのより一層の普及とともに、イラン国内のバレーボール競技もさらに活発になった。国際的なフィールドへのコーチや審判らの派遣も、イラン・バレーボールに新たな成果をもたらしたのである。

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( 翻訳者:8409154 )
( 記事ID:31786 )