イラン・バレーボールを彩った外国人コーチたち(2):イヴァンとパク
2013年10月15日付 Jam-e Jam 紙
【ジャーメジャム・オンライン・スポーツ版】
イラン史上初の外国人コーチが登場してから半世紀以上経つ。サルダール・ナスロッラー・ハーンは、ヒジュラ太陽暦1340年代(ほぼ西暦1960年代)はじめには、コーチととはみなされていなかった。彼はたいていの場合、審判として話題にのぼっていたからである 。
バレーボール界に精通しているジャムシード・ハミーディー氏は、当時のイランのバレーボールの状況と、指導者 たちが外国人コーチの起用を切望していたことについて次のように語る。
当時のナショナル・チームの選手たちは、サルダール・ナスロッラー・ハーン[の存在]を、イラン・代表チームが日本代表に敗北した要因のひとつであると考えていた。[インド人であった]ナスロッラー・ハーンは、彼のアジアのバレーボール審判員たちへの影響力によって、イラン代表の敗北の序章を用意したのだ。だからこそ、イランのバレーボール・チームに彼を起用した目的は、同じようなことが繰返されない為だったと考えられるのである。
イランのバレーボール界には、サルダール・ナスロッラー・ハーンの後も多くの外国人コーチが起用されたが、いずれもその貴重な経験をイランの若き選手らに伝えた。アジア、ヨーロッパ、アメリカ各大陸出身の経験豊富なコーチたちが、その時々に応じて注目に値するバレーボールのトレーニング方法を導入した。
ハミーディー氏はコーチたちの何人かについて次のように述べた。
14人ほどの外国人コーチを迎えたこの50年間の間には、良しにつけ悪しきにつけ、さまざまなコーチたちがいた。マツモト・コーチ[※元・日本代表、松本文彦と思われる]の場合は、ビーチ・バレーのコーチを務めただけであったが、日本・イラン文化交流の一環としてイランを訪れ、数年間活動した。
イヴァン・ブガイェンコフ[※ペルシア語表記まま]の場合は、彼の世界的名声ゆえに、イランのバレーボールを世界中に知らしめた。ジャムシード・ハミーディー氏は、イランでイヴァンがコーチを務めた時期のバレーボールの成果を価値あるものとみなしている。革命[1979年]以前には、我が国には イム教授やパク・スウォンといった優秀なコーチらがいた。そして、革命後に、バレーボールの礎となる事柄において 革新を成遂げたのは、このイヴァンだった。イム教授は36年前に、世界のバレーボール界で、[現・イラン代表監督の]ヴェラスコに匹敵するほどの名声を博した。
イヴァンは当時、イランのバレーボールはいつの日か世界でベスト・テン入りを果たすと常々語っていたが、先のシーズンの世界リーグでそれが実現し、イランは9位となった。韓国のパーク・スウォンも35年前に当時広まりつつあったバレーボールのテクニック を選手たちに教え、イムと並んで革命以前の最も優秀な外国人コーチだった。しかし、この二人のコーチのあと長い年月経て、イヴァンがもたらした影響について忘れてはならない。彼はコーチ就任期間の終盤にも、依然として伝統的な方法でトレーニングを行っていた。もはやバレーボールがこうした伝統的で古いメソッドを必要とせず、新しいトレーニング方法が模索されていたにもかかわらず、である。
同記事(1) を読む
同記事(3)を読む
原文をPDFファイルで見る
( 翻訳者:3413001 )
( 記事ID:31766 )