米大使館占拠事件に関するイラン映画の貧困
2013年11月04日付 Jam-e Jam 紙

【ジャーメ・ジャム:エフサーン・ラヒームザーデ】58年アーバーン月13日〔1979年11月4日〕の「スパイの巣窟」占拠事件に関するイランの映画やテレビは、あまり多いとは言えない。この事件について制作されたものは、数本のドキュメンタリー映画/テレビ向け映画にすぎず、最近作られたものも事件の本質をターゲットにしたものではなく、むしろ事件の反響について取り扱ったものである。

 スパイの巣窟占拠事件とその周辺に注意を向けたドキュメンタリー/フィクション映画としては、『砂嵐』(ジャヴァード・シャムガドリー制作)、『第二の革命』(マジード・ゾルファガーリー監督)、『444日』(モハンマド・シールヴァーニー監督)や、テレビ向け映画『ルーズヴェルト卿のペルセポリス』といったものが挙げられる。

 事件について偽りのイメージを示したハリウッド映画『アルゴ』制作の後、アーバーン月13日の事件をテーマとした国内映画の少なさが、特に目につくようになり、イラン映画界は芸術的かつ現実的な作品によって、西洋の空想に満ちた映画を打ちのめすべきだといったことが言われてきた。しかしにもかかわらず、「千の甘美なる約束に誠実なるもの一つもなし」の法則通り、これといったことはいまだなにもなされず、『アルゴ』は依然として野放し状態となっている。

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 皮肉なのは、『アルゴ』の冒頭で「この映画は現実のストーリーに基づいて作られたものです」とのキャプションが付けられていることだ。それも、スパイの巣窟占拠事件を自由に解釈し、脚本家や映画監督の想像が多くの箇所で幅を利かせている映画の冒頭で、である。例えば、イランから逃亡する人物を乗せた飛行機が飛び立つときの、エキサイティングな場面について指摘することができる。この場面はサスペンスに満ちた形で描かれており、たとえ映画の鑑賞者が結末を知っていたとしても、ハラハラさせられるほどである。しかしながら、CIAのスパイだったメンデズは回想録の中で、「メフラーバード空港からの脱出作戦は『絹の柔らかさ』で、つまり極めてシンプルに実行された」と書いているのである。

 面白いのは、カーターの言によると、この人物はイランに1日半しかいなかったということだ。ところが映画では、彼はもっと長い期間滞在し、その間に映画を撮ったり、そのための許可を得たりといった空想上の出来事が起きているのである。2009年にイランで逮捕された3人のアメリカ人のうちの一人であるサラ・ショードはこの映画を批判して、『アルゴ』はイランの本当の姿を消し去っていると書いている。そして彼女は、この映画の真のヒーローはカナダ大使館に勤めていたイラン人女性ではないかと推測している。しかし映画では、彼女に十分な価値が置かれてはいない。

 この映画のもう一つの嘘は、イランの人々に対して描かれた、粗暴で非理性的なイメージである。このことについて、映画批評家で政治関係論の専門家であるオミード・ハビービーニヤー氏の意見に触れておくのも悪くないだろう。彼は次のように言っている。「映画で描かれている多くのイラン人のイメージは、客観的な事実と異なるばかりか、当時の現実とも異なっている」。

 『アルゴ』の監督は現実の出来事(カナダ大使館の助けを借りた6人のアメリカ人の逃亡)を利用し、その脇に嘘の脚色を施すによって、想像のディテールを実際のことであるかのように見せている。この映画を観た外国の人々は、大使館占拠のためにイラン人学生らが侵入した際、彼らが武装していたといったディテールの真偽について調べるようなことはしない。彼らは見せられたものを信じるだけなのだ。イランの国内の状況について、これといった情報など持ち合わせていない普通の視聴者は、物語の枠組みを受け入れると、多くの確率でそのディテールも信用してしまうものなのである。

 『アルゴ』への回答として、この映画と同じようなサスペンスとハラハラドキドキに満ちた、と同時にディテールについては鑑賞者の目に事実を提供する映画を作らねばならない。もちろん理想をいうならば、イラン映画界は自ら、大小さまざまな政治的テーマについて積極的に作品を作り、このことでいつも後手後手を引くようなことのないようにしなければならないだろう。

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( 翻訳者:白糸台国際問題研究所 )
( 記事ID:31978 )