忘却の埃がつもる国民遺産――近代の名士・詩王バハール邸
2013年11月07日付 Mardomsalari 紙
アーバーン月16日(西暦2013年11月7日)は詩王バハール[※1]の生誕記念日である。
もしかつて
さよなき鳥よ、嘆きの声を挙げよ [※2]
が「自由」のために詠われたとすれば、今日、詩王バハールの「さよなき鳥」は、今度は詩人自身の家のために「嘆きの声を漏らす」のだ。
※訳注1:詩王バハールは、本名モハンマド・タギー・バハール(1884-1951)。ガージャール朝の宮廷詩人の家系に生まれたが、立憲革命期には「自由」や「祖国」を歌った詩も多く残した。国会議員・文化相も務めた当代随一の政治家・文化人のひとり。
※訳注2:「さよなき鳥よ、嘆きの声を挙げよ」は詩王バハールの有名な詩の最初の一節。シャジャリアーンらの楽曲とともに親しまれている。
長らく崩壊と忘却というほこりが積もった家がある。その家は、塵と埃が拭い掃われるよう第11期政権[ロウハーニー新政権]の深慮に望みをつなぎ、文化遺産観光庁によって、イラン、特にテヘランの歴史的建築物の再生のための新たな息吹が吹き込まれるよう望んだ。
マレコッショアラー[詩王]・バハール通りに接するのゴウハルという名の路地のいちばん奥に、ひっそりとした路地の一角にたたずむ邸宅がある。 ここは詩王バハールが所有していた屋敷である。たとえこの路地の住人がいかなる理由であれ、ここはそうではないと言い、別の住所を教えてくれたとしても。
日毎に崩れ落ちていく家は、未だ再生のための救済策さえ検討されていない。かつて倉庫だった場所を見てみると、今はカラスだけが毎日この家の中庭の木にとまり、自由に出入りしている。
この歴史的な邸宅が1382年バフマン月2日〔西暦2004年1月22日〕に国民遺産リストに登録され、その登録から約10年経っても詩王バハール邸の修理は開始されていない。
興味深いのは、7年前までこの邸宅の4分の3はイラン国立図書館・文書庁が管轄する倉庫となっており、使われなくなった事務備品などが置かれていた。その後、同庁は1385年〔西暦2006/7年〕にここを引き払ったようである。
この家については、折にふれて報告が出されてきたが、もし新たな策が検討されないなら、この建物やこれに類した建築物に関わる記憶は全て、新建築の基礎コンクリート の下につぶされてしまうこともあり得よう。
バハール邸は、その主の文化的だが素朴な人柄ゆえに、装飾というものがなく、詩王[バハール]に特有の精神を示すものだと言われている。
[…]
特筆すべきは、バハールの家はドウラト門[※3]の外の大きな庭園だったという点である。それは、ぐるりを取り囲む形で居住用の建物が建つ中庭 をもち、また、草花が咲き乱れる大きな庭があった。バハールはこの家を1310年〔西暦1931/2年〕にヘダーヤット一族[※4]から購入したのだった。
※訳注3:サファヴィー朝期からガージャール朝期にかけて、当時のテヘラン市街を取り囲むようにして建立されたおよそ12の門のひとつ。
※訳注4:ガージャール朝~パフラヴィー朝期に首相や大臣らを輩出した名家。小説家のサーデグ・ヘダーヤトもこの一門である。
バハールは、未完だった それらの建物を完成させ、家族のために大きくて広々とした家に造り替えた。バハール通りに立つ建物も、テヘランにおける[近代期の]「革新」と「新方式志向」の時代の様式によるものであり、(ターレガーニー通りなど)新方式による大通りが各所に造成されたのち新しい様式で建てられたものである。
しかし、こうした問題は、バハールの邸宅のみにとどまらない。[テヘランには][ガージャール朝の首相]ピールニヤーの邸宅、エッテハーディエ邸[旧・ガージャール朝宰相アミーノッソルターン邸]、ダールルフォヌーン[イラン初の「近代的」高等教育機関] ほか多くの[ガージャール朝期の新方式による]建築物があり、それらの上には忘却と怠慢の砂埃がかぶっているのである。
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( 翻訳者:8411151 )
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