シリア:ヤーズィジー総司教「レバノンは諸国外交団に操縦されるために創られたのではない」
2014年01月01日付 Al-Nahar 紙
■ヤーズィジー総司教、ダマスカスでの新年祝賀ミサの中で「レバノン国家は諸国外交団に操縦されるために創られたのではない」と述べる
【国営通信】
本日ダマスカスの聖マリア・カトリック教会において、全東方カトリック教会代表でアンタキーア教区総司教のヤーズィジー・ヨハネ10世が主宰する新年祝賀ミサが、カトリック司教・司祭団と大聖堂聖歌隊の協力のもとに行われた。
ヤーズィジー総司教はミサにおける説教において「シリアを危機から救いだす道は、無条件の話し合いと他者を認めることに基づいて平和的・政治的な解決を求めることによって見いだされる」と述べ、さらに続けた。「シリアはイスラム・モスクのアーザーン(礼拝の呼びかけ)とキリスト教会の鐘の音が常に響き合い、さまざまな出遭いがあり、穏やかな静けさのもとで脅迫のムチの音など耳にしたことのない国だった。われわれは、シリアがかつてのそのような状態になることを望んでいる。われわれは、シリアが略奪や盗みの製造工場でなく、郷土愛や大地に根付いた精神を育む創造の場所であって欲しい」
総司教は次のようにも述べた。「われわれは、シリアが子供達を迫撃砲や爆発物の危険にさらすことなく安全に育てられる国になることを望む。また人々が武器に代えてつるはしの音を響かせながら『われわれはフェニックス(不死鳥)のごとくいつまでもたゆまず、明日にむけての建設に取り組んでいく』との誓いのもとで、シリアを一つのまとまった国にしていくよう切に希望する。シリア国家は、人々が悲劇の涙を拭ったり難民化するのを目撃するために創られたわけではない。いかに戦争やテロや住民追放の危機に覆われていようとも、シリアが聖なる土地であることをイスラム教徒もキリスト教徒も固く信じており、内部に発するこの輝きの閃光(せんこう)に触れた世界は、シリアが聖なる土地であるということに気づくであろう」
さらに総司教は続けた。「われわれはダマスカスからレバノンに向けて、同国の安定と主権を願って祈りをささげよう。レバノンにおける共生の論理が威嚇の論理に圧倒されることのないように祈ろう。神がレバノンを共存の世界として維持しようとされたのに、諸国の外交団がレバノンを操縦するというのは同国本来の姿ではない。今日の(強国支配体制下の)世界において明日にむけての調停者の役割をはたすというのが、レバノン国家のあるべき姿である。レバノンは国民を虐殺や爆弾テロにさらすような国家として創られたのではなく、多くの思想家たちに恵まれてさまざまの文化と知識の揺籃(ようらん)の地として生まれたのである」
総司教はレバノン国家の諸権限が空白状態にあることに触れ「権限の空白状態は空疎で無能力な権力の登場をもたらしている」との危惧を語った。ここで、総司教は「傷つき、多くの者たちによって忘れ去られたパレスチナを守り給え。イラク、エジプト、そして世界中全てを守りたまえ」と唱えて、神の御加護を求めた。総司教は、ヨハネとイブラヒームの両司教(二人は政府軍包囲で孤立したアレッポのシリア・カトリック教会の司教)のために祈りを捧げ、その後にこう述べた。「われわれは全世界の諸国政府に対して次のように訴えたい。今日の悲惨な状況を食い止めよ!この東アラブ世界の人々のことをただ見つめていたり、言葉ばかりの人権尊重を唱えるのは止めにして欲しい」
総司教は、神に対して次のように語りかけた。「平和の精神を全世界に強めさせてください。人々の心の中に平和を根付かせることで、全世界を穏やかさで包みこんでください。神よ、私たちは、あなたの平和の御託宣が降って私たちの悲しみに満ちた心が癒され、悲しみの涙がぬぐわれることをどれほど強く待ち望んでいることでしょうか。あなたの御加護によって、この世界がかつての平和な時代に戻るようにと私たちは強く願っております」
ヤーズィジー総司教は「神の御慈悲によって、悲嘆に暮れる人々は涙をぬぐい、またわたしたちはいっそう勇気づけられて、故郷を喪なって難民となった同胞たちを支えて行くことができますように」と唱え、最後にアラブ世界とカトリック世界の信徒同胞ならびに南北アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、その他世界諸地域のすべての人々に向けて祝福を与えた。
この記事の原文はこちら
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:木戸皓平 )
( 記事ID:32465 )