イスタンブル「乙女の塔」、差し押さえ!?
2014年01月19日付 Radikal 紙


差し押さえ訴訟により、昨夜(1月17日)、由緒ある乙女の塔に弁護士らが立ち入り、レストランの売上を差し押さえた。

実業家アフメト・ハムオール氏とムスタファ・シェケル氏の間で争われている差し押さえ訴訟が乙女の塔にまで波及している。この度、シェケル氏が、ハムオール氏が経営する乙女の塔内のレストランを差し押さえた。弁護士らが由緒ある乙女の塔へ出向き、レストランの日々の売上を差し押さえている。

■兄弟間で不和

実業家のアイドゥン・ハムオール氏は1970年に兄弟のアフメト・ハムオール氏と共同でハムオール・ホールディングを設立したという。その後、アイドゥン氏は兄弟間の不和を原因に自身の株式を約5000万リラ相当の小切手でアフメト氏に売却。しかし小切手の払い込みが不十分だったとして、アイドゥン氏が、アフメト氏に対して、イスタンブル第一商業裁判所に訴訟を申し立てた。アフメト氏は自分への訴訟が起こされていることを知ると、同ホールディングの全資本で従業員名義の子会社を設立し、差し押さえ阻止を試みたという。

しかし、アイドゥン氏は、裁判費用の工面が困難となると、別の実業家ムスタファ・シェケル氏に債権を委譲した。裁判が進む過程でシェケル氏側弁護士が、差し押さえ執行に乗り出した。原告側の弁護士はこれまでにハムオール・ホールディング傘下のスィリヴリの五つ星ホテル「クラッシ ス・ホテル」や、クラッシス・ゴルフ&カントリークラブ、マキシ・ショッピングセンターなどを下見した。しかしその際、各施設で差し押さえができなかったため、弁護士らはハムオール氏を財産差し押さえ忌避を理由に、新子会社への財産委譲を阻止すべく、イスタンブル第9裁判所に処分権停止を訴えた。

■差し押さえ額は1200リラ相当

ハムオール氏が1995年以降49年間の経営権をもつ乙女の塔で、差し押さえを強制執行するため、原告側弁護士はイスタンブル執行局から決定を引き出した。弁護士3名・執行官4名が、昨日夜、乙女の塔に出向いて執行状を職員に提示し、1200リラ相当の売上を差し押さえたという。

ムスタファ・シェケル氏の弁護士であるアスム・オズジャン氏は、判決の下に乙女の塔[にあるレストラン]売上を差し押さえたと明らかにしつつ、「本来の債権者はアイドゥン氏です。昔のパートナー、現在ハムオールグループのオーナーであるアフメト氏は彼の兄弟です。アイドゥン氏はかつて私の顧客でした。彼は企業での自分の株式を譲渡し法務書類一式を受け取ったはずです。しかし書類内容に沿った支払いが期限までになされなかったため、法的な差し押さえに踏み切り、執行手続きをおこないました。しかしその後、残念ながら企業の資産は従業員名義の子会社に流れていたことがわかりました。この件に関して法的手続きが進行中で、提訴をおこない対策を講じました。それと同時に私どもの取り分を回収するため、法的手段を駆使して取り組んでいます。差し押さえ執行に向けた各種手続きをおこなっており、取り急ぎ、乙女の塔の売上を回収したところです。内部で経理処理も行われています。この方式での債権回収は乙女の塔が閉鎖されるまで続く予定です」と述べた。

■「債権者の確定した強制執行」

一方、アフメト・ハムオール氏側の弁護士とハムオールグループの代理人セルジャン・ピュレ氏は、次のように述べた。

「昔の会社の共同経営者の債権に関する差し押さえについて、関連する法的処理が進んでいます。われわれも異議申し立てや訴訟を起こしています。その問題に関してこちら側の弁護士が法手続きをおこなっております。われわれはハムオールグループの代理人として法的にこの場におります。債権者の確定した強制執行を受けています。」

■乙女の塔概略

ウスキュダル地区サラジャクの150~200メートル沖に建つ。建立時期ははっきりしておらず、一部では紀元前241年にまで建築時期がさかのぼるという主張もある。

乙女の塔はかつては「ダマリスとレアンドロス」と呼ばれていた。ダマリスは時のアテネ王カリスの妻の名である。ダマリスが亡くなったときにこの海岸に葬り、塔にその名をつけたと言われている。また、この塔はビザンツ時代に「小さな城」を意味する「Arcla」と呼ばれていたこともある。オスマン帝国によるイスタンブル征服後に、当時の塔は撤去され木製の塔が建てられた。しかし、1719年にこの木製の塔は火事で焼失。1725年にイスタンブルの建設者[大宰相]ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒムによって石造りの塔が再建された。

その際、塔上部は窓つきの居室に建て替えられ、その上に鉛で覆ったドームが増築されている。また、塔の入口上にある大理石には、高名な書家ラキム・エフェンディによるスルタン・マフムト2世を含んだ碑がはめ込まれている。

1857年にはさらに灯台が増築され、1920年に灯台の灯りが自動点灯式となった。時の流れの中で、乙女の塔は貿易船からの税を徴収したり、ときには防衛の拠点となり、ときには灯台となった。1830年のコレラ流行時には隔離病棟にもなったし、ラジオ放送局としても使用されるなど、多くの役割を担ってきた。共和国建国以降は、海岸の灯台として使用されてきたが、1964年には防衛省、1982年には海運・漁業局の管轄となった。今日ではレストランとして一般に開放されている。

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( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:32629 )