Eyup Can コラム:クルチ憲法裁判所長官発言の、ひっかかる点
2014年04月26日付 Radikal 紙

ハシム・クルチ氏の発言は厳しいが、原則論的なものであった。授業で話すかのようによく準備された彼のリベラルな発言を、個人的論争で曇らせなければよかったのに。

ハシム・クルチ憲法裁判所長官は昨日(4月25日)、憲法裁判所設立52周年記念のスピーチで非常に厳しい発言をおこなった。
正直に言おう・・・
彼の発言の本質的部分や普遍的法規を強調する姿勢、リベラルな見解は賞賛すべきものだった。しかし一点だけどうもひっかかる部分がある。
私がひっかかったのは、長官の発言の厳しさや、政府非難ともとれる物言いではない。憲法裁判所や最高裁判所長官らは、昔から政治家を不快にさせるような厳しい発言をしてきたものだ。

毎度、普遍的法規を強調するサーミー・セルチュク氏(1999-2002年最高裁長官)やアフメト・ネジデト・セゼル氏(1998-2000年憲法裁判所長官、2000-2007年大統領)を思い出してみるといい。時の首相に向かって「われわれは良心と財布(利益)の間に取り残された」とハッキリと抵抗を示したムスタファ・ブミン氏(2000-2005年憲法裁判所長官)などもよい例だ。
今回のハシム・クルチ長官の「良心の欠如」という叫びや、普遍的法規の強調、リベラルな態度もそれらと同じだと考えればよい。
そういう意味では、私個人としては発言を全体としてみれば、この点でかなり良く練られ、原則論的で良心的な発言であったと評価している。
幸いにもトルコには普遍的法規を信じるリベラルな機関があったということだ。
しかし、やはりある一点が気にかかったのである。

クルチ長官は首相の名を出さず、「シャツを替える」から「浅薄な」(とした発言)にまで至った(議論の)レベルの中で、こっそりと、当の本人と直接やり取りすべき個人的論争ともいうべき批判を、かなり原則論的な話の中でまたその立場としての話の中で話したことに、私は納得いかないのだ。
憲法裁判所の長官らは、決してイデオロギーによってではなく、われわれ全員に対し法の普遍的基準を強調する際に、政治を行うのである。
クルチ長官はイデオロギー的な振る舞いをせず、普遍的法規を強調している。昨日も今日も、その価値観に基づき行動している。
そのため、政権サイドからの「法衣を脱いで政治をしろ」という非難は意味をなさない。
しかし、憲法裁判所長官というものは、日々の政治や個人的論争に、何はさておきこうしたことに、なにか原則論的な話をする際に、言及するものではないし、言及してはいけない。

さて、憲法裁判所が下したTwitter停止の違法判決に対して、「厳粛に受け止める必要があるとは思わないし、国に敵対している」と言い放ったエルドアン首相の態度は、それほど普段と違っていたと言えるだろうか?
これまでも、まさにそういった理由で首相は批判されてきたのではなかったか?
首相が皆を叱責するかのように話すとき、あれやこれやに修正(調整)を加えるとき、すべての問題を個人的論争に変えるとき、そして気に入らない決定を「国に敵対する」と言うとき、これらを間違っているというのなら、クルチ長官が、エルドアン首相と「シャツを替える」をめぐる論争になるや、論争を受ける相手側のエルドアン首相を「浅薄な」といって非難し、個人攻撃するなら、果たしてそれも正しいと言えるだろうか。
私個人としては、クルチ長官の原則論的な話や、リベラルで良心的な発言の本質に心から賛同することと、このことは一緒に語ることはできない。憲法裁判所長官は、自由をそして普遍的法規を、政権と首相らに対して、最後まで守るものだし、そうであるべきだ。しかし、その機関の筆頭に名を連ねる人間が、政治家と個人的な議論をするものではないし、そうすべきではない。

クルチ長官が個人的請願権と自由を守る一方で、「良心の欠如」を指摘した時、政治を挑発する者たちを除く、我々の多くに「幸い、この国には健全な憲法裁判所があった」と言わしめた。
しかし同じ発言に不必要な個人的な論争の文言を盛り込むのは私にはあまり正しいとは思えない。首相相手に個人的な議論を戦わせるのは野党の仕事だ。
クルチ長官は厳しくも原則論的な話を行った。授業で話すかのようによく準備された彼のリベラルな発言を、個人的論争で曇らせなければよかったのに。

明らかなことは、最近の首相の司法に対する理不尽な発言ややり方、特に「国に敵対する」との非難が、長官を傷つけたらしいということだ。
傷つき立腹するのは当然だが、個人的な論争もまた、長官とその地位を傷つけるものだ。
クルチ長官、私の意見は間違っているだろうか?

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( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:33662 )