Kolay Caliskanコラム:怒るのは、間違い―エルドアン怒りの退席事件
2014年05月10日付 Radikal 紙

大統領が座っている時、首相が立ち上がって出ていくのは、大統領の地位へ首相がどの程度敬意を示しているかを表すものである。大統領候補にとっては許され得ない行為である。

トルコ弁護士協会のメティン・フェイズィオール会長の演説が幾分長かったのは事実である。行政裁判所の式典のためにやって来た大統領と首相へ、30パラグラフもの(確認した、私は彼の演説内容を読んだ)演説をぶつのは、(政治的な)ショーに限りなく近い、危険なものである。

しかしながら、極めて注意深く書かれた、そして4つのパラグラフごとに「親愛なる我が大統領(単なる『大統領』ではなく、『我が大統領』である)」という呼びかけの続く、また民主的な法治国家の重要性を強調し、行政裁判所所長の演説と意を全く同じくする文章を、メティン・フェイズィオール会長は読み上げたのだ。

民主的な慣行という観点から見れば重大な問題はない。しかしエルドアン首相が行ったことは、この慣行をめちゃくちゃにしてしまうような、適切を欠くものであった。以前、クルチ憲法裁判所長の演説にはどうにか耐えたエルドアン首相であるが、法治国家をエルドアン首相が蝕んでいると発言した法律家に、今度は耐えることができなかった。

批判に対してこれほどまでに閉鎖的な(批判を受け入れない)民主的法治国家の指導者は世界に類を見ない。マスコミで言われていることとは反対に、エルドアン首相は演説を最後まで聞いた。演説が終わってから出て行った。もちろん式典は放棄してしまったのだ。

大統領が座っている時に首相が立ち上がって出ていくのは、大統領という地位へ、首相がどの程度敬意を示しているかを表している。大統領候補にとっては許され得ない行為である。しかもフェイズィオール会長が「厳しい攻撃演説を差し控えるよう求め、よりソフトなやり方」へ皆を持っていこうとする時にである。

だが、大統領が立ち上がり首相の後ろについて式典を後にすることは、エルドアン首相がやったことと同じくらい不適切なことである。政府の第一位(大統領)は、第三位(首相)の後ろについていくものではない。

全くのアマチュアで、理性ではなく感情が制御権を握っていて、厳しさや忍耐力の欠如が政府のトップにこんなにも簡単に現れ出るトルコで、政治組織は、急速に品位を落としている。本当に不安の種である……。

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( 翻訳者:粕川葵 )
( 記事ID:33830 )