■ヨルダン、シリア大使を追放…選択肢を広げるため
【イブラーヒーム・ハミーディー】
ヨルダン政府は過去3年間を通して、二つの選択肢をうまく調整するのに成功している。この選択肢は「アラブの春」やシリアの抵抗運動の影響の計算する上で、ヨルダン内政と、域内そしてアラブ諸国との連盟、国際関係の間の均衡をもとにしており、「甘い」選択肢でさえも「苦い」ものとなっている。
ヨルダンは、シリア南部や、「革命発祥地」であるダルアーの反対派勢力への支援に向けて、トルコがシリア北部にいる反対派勢力への支援のために国境を開放したようには国境を積極的に開放することはなかった。すなわち西側や域内の圧力に完全に従うことができなかったのである。
また、反体制派勢力に対して完全に国境を閉鎖しなかったし、シリア政権に対しても完全に国境を開放しなかった。さらにイラク、ヌーリー・マーリキー政府のシリア政権支援の選択を完全に支持したわけでもなかった。マーリキー政府は、シリアにイランの支援が届くための便宜を図り、シリアに来る戦闘員たちを黙認した。これらの戦闘員は、ダマスカス南部にある「ザイナブ廟の防衛」するためにシリアに到来し、さらに積極的にイラク国境から離れた地域で既にシリア領内にいる戦闘員たちを追って「タクフィール主義者との戦い」を行うのである。
また、ヨルダンはレバノン政府の選択肢にも従わなかった。これはシリア内戦に対して理論的には「距離を置くこと」であり、実際的には、シリアの「タクフィール主義者」がレバノンの「安全な地」に到達する前に「ヒズブッラー」が積極的に彼らの軍事拠点への攻撃に加担し、シリア政権部隊がカラムーンやシリア中部のヒムス、およびその郊外を奪還しようとすることを黙認するというものだ。
(後略)
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( 翻訳者:谷山ひかる )
( 記事ID:34140 )