「私の罪状はアタテュルク主義者を育てたこと」―釈放の女性少佐、刑務所での暮らしを語る
2014年06月21日付 Hurriyet 紙


バルヨズ裁判で有罪判決を受けた唯一の女性士官、ベルナ・ドンメズ退役大佐は、釈放後ヒュッリイェト紙に家の門を開いた。未だ面会の叶っていない母親との初めての電話での会話を、我々も目撃した。ドンメズ退役大佐は、自身に科せられた懲役16年の判決を聞いた日から「刑務所にいるのだ」と思いながら目覚めた昨日までの経験を、ヒュッリイェト紙に明かした…。

■「16年」に崩れ落ちた

あなたは検察から自由の身になり、逮捕されないまま裁判にかけられている。裁判所は弁護を行った後、「裁判所に来る必要はない」と言う。さてあなたはどう感じるだろうか?無罪になるのではないのか?判決が明かされている。どれほど混んでいることだろうか、私は中には入れなかった。叫び声、怒鳴り声、意識を取り戻す人、気絶する人…。直後にゼキ氏がやってくるのを目にするが、混乱していて、話すことができない。「有罪になったのか」と私は言い、「16年だ」と言われるやいなや崩れ落ちた。「ベルナ、調子が悪いのか、家に帰ろう」と言われた。この時、テレビの字幕は「逃げた」に変わったそうだ。私はパニックになった。一方で、出頭しようとスーツケースを用意している。人生で最も悪夢のような夜だった。出頭する前、土曜日に最後に海岸に降り、ゼキとカモメを見て、海を見た。「ああこんなことが何年続くのか。何年間海を見られないのか」と私は言った(泣きながら)。


■ヒュッリイェト紙の広告

最初に法廷に行った時、私は「これほどの指揮官の中で私になんの役割があるのか」と言った。しかもこの人たちは昇進しようとしている人々だ。一掃作戦があることは知っていたが、かれらはこれを真剣に温めていた。一掃しようとすれば刑務所に送らなければならないのか。彼らに「我々はあなた方をトルコ国軍(TSK)に必要としていない」と言えば、誠実で名誉ある人々は全員、もはや望まれない場所に留まることなく、引退しただろう。なぜその場に私がいるのか、後に理解し始めた。私は歴史の教師で、革命の歴史、アタテュルク主義、政治史の授業を行っている。過去を説明し、過去に起こったことは未来への教訓となるべきであると言っている。アタテュルク主義者の士官たちを育てている。私の最大の罪は、実のところこれなのだ。彼らはこのことをどのように言おうとしていたのだろうか?聴いたことを信用せず、私の友の子どもたちは、罪は何だったと言っているのか?「ユルドゥズ工科大学を目指そうとしていた」と私は言う。子どものころからとても士官になりたかったが、TSKは女性士官を受け入れていなかった。私が入隊した時に(女性士官の採用が)始まったばかりだった。ヒュッリイェト紙でとある広告を目にした。父は「難しい職業だ。一度入れば15年は離れられないが、教師になれば雇用期間も融通がきくようになり、辞めたいときに辞められる」と言っていた。

■恐れることがあろうか、私は兵士だ

今まで私の弁護士は1人もいなかった。交番も、警察も知らない。バクルキョイに刑務所があることすら知らない。刑罰を受ける3人の友人女性とともに、スィリヴリに行くものと思っていて、同じ監房に入るだろうと考える。私たちが知ったところによると、スィリヴリに女子刑務所はないらしい。そして他の2人の友人はまだ任務に付いているため結局彼女たちと一緒にいることはできないらしい。監房までスーツケースを持っていくものと思っている。「いや、スーツケースはだめだ」と言われる。限られたものしか持ち込めない。刑務官の服なので、青、紺、カーキの服は持ち込めない。Tシャツ2着、トラックスーツ2着、ズボン2着…。まず一時的な監房に、1人で入れられた。「扉を施錠しますが、怖がらないでください」と言われた。恐れることがあろうか。私は兵士だ。翌日、監房に入れられた。17・8人…。彼女らは1人の大佐の未来を知っているようだった。さらには「兵士らしく入ってください」と言う。私はもちろん、どのように入ったかなど意識していなかった。毎朝8時に点呼がある。「おはよう、皆さん」と私は言う。私たちはそうやっていた。勤務が始まるときには、皆それぞれにおはようと言う。監房ではだれも挨拶をしない。私たちにはひとつの「価値」があった。私がおはようと言うと「価値が何かなんて知らないけれど、命令してください指揮官」と始まるものだった(笑)。彼女たちは非常に敬意を払ってくれた。ありがとう。刑務所で私が最年長でもあったので…。デニズ・セキも収監されていた監房らしい。A1役人用監房だ。

■皿洗いもさせてもらえない

あなたは寝坊することだろう。やることがなにもないからだ。政府からも与えられるが、私は食堂でチーズを買っていた。野菜や果物の日もある。私たちは朝食を共にとっていた。週に300リラを使う権利がある。調理はまったくさせてもらえず、皿洗いも一度もさせてもらえなかった。彼らに報酬を払うこともできない。食事はもらえるが、人生にそれだけでは不足なのは当然だ。食堂にサモワールがくればすぐに手にとった。じゃがいもは茹でられていたので、揚げ物はその場でしていた。私は人生の中でそれまでドラマを見たことがなかったが、ドラマを見た。女の子たちにはからかわれた。「驚いた、ベルナ姉さん、あなたも私たちのようになったの。週に5日ドラマを見ている」と。ストレスが増えるだろう、頭を振るだろう、あなたならなにをするだろうか?ドラマは全部見た。特に議論番組を多く見ていた。最初の週に私たちを裁いたメディアもたくさん見た。メディアには多くの罪がある。謝るべきだ。

■「朝食時に行きます」と言う我々の言葉に慌てる

ベルナ・ドンメズは、刑務所にいた2年間、監房の仲間たちが、料理を引き受け、皿洗いすらさせなかったと話し、我々に自分の手で朝食を用意してくれた。前日の夜、電話で「明日の朝食はあなたのところで食べさせてもらいます」と言うと、2年間家にいなかったので、家に朝食の材料があるかどうかもわかりません」と慌てていた。「この2年間で始めてトマトを切った」と言いながら、冷菜を用意し、夫にナフキンの置き場を尋ねて「何がどこにあるのかすっかり忘れてしまった」と悲しそうにしていた。泣いたり笑ったりしながら、我々に割いてくれた1時間半の対話の3分の1を周囲の気遣いの電話の対応に費やした。

■私の代わりに海を見てくれますか

普段、私はせっかちだ。なんでもすぐにしたがる。この2年で辛抱することを学んだ。あまり喋らず、心のなかで何でも話していた。説明したいことを自分の中でだけ共有していた。同室の娘たちと話すこともあったが、世界が違う。私を一番悩ませたのは、私が外ではとても力強い人間であり、刑務所でもそうだと言われていたことだ。そうだろうか。つまり、私は自分が無力だと感じていたのだ。私と同じ状況にある人がそばにいれば、精神状態は全く違っただろう。共通する世界をもたなかった。自分の中には常に希望の光があったが、絶望にとらわれた時にそれを共有できる人はいなかった。私のことなんて忘れられているのではないかとよく感じた。空さえ見ることができないのだ。私の望みはごくわずかな空を見ることで、地面に足跡をつけようと言っていたが、まだ実現はできていなかった。ゼキがとても恋しかった。知っていれば言わなかっただろう。昨年イェニキョイにある軍の官舎で友人の息子が結婚した。「結婚式に行きますがなにか欲しい物は?」と言われ、「私の代わりに海を見てくれる?」と言った。それが彼女にとても響いたらしい。「もう一度会うことなくこの世界から出て行くだろう」と話していた。互いに同じことを考えていたが、互いに言うことはなかった。互いにこんな日々は過ぎ去るよと言っていた。皆お互いに役割を演じていた。

■そこで私は泣いた

あなたが私の見送りを見ていたとしたら。「絶対泣かないで、私も泣いてしまう」と私は言った。釈放された人は出ていくと、扉が閉められた後その扉を叩いていた。彼らは扉を叩き、私も手を振ってキスを送りあった。私は廊下の先頭に立っている。私にベルナ姉さんと呼びかける人々が見えた。刑務官たちに全員を出せと頼んだらしい。「私たちはムスタファ・ケマルの兵士だ。最強の兵士は私たちの兵士だ」と叫んでいた。そこで私は泣いた。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:34401 )