イスタンブル旧市街、ビザンツ遺跡の惨状
2014年10月25日付 Zaman 紙
聖ポリュクトゥス教会の遺構で行われている発掘作業
聖ポリュクトゥス教会の遺構で行われている発掘作業

 オスマン帝国期さえ何世紀にも渡ってを守ってきたイスタンブルのビザンツ時代の遺跡は、今無関心にさらされている。それぞれが歴史遺産たる遺跡は救出の日を待っている。

 旧市街の今日にまで至る多くの歴史遺跡は、市の管理職員にも住民にも尊重されていない。保護どころか、大昔の歴史的建造物はこの町の住民の無意識で腹意のある行動にさらされている。だが盗まれて売られたり、破壊されたり、失われて初めて価値がわかる遺跡群は、有識者の介入が必要だ。旧市街のビザンツ遺跡は、オスマン帝国期の500年間では破壊されなかったが、91年間の共和国時代に破壊を被った。今日、ファーティフ区内に残る数十の歴史的建築物は、当然受けるべき敬意と文化的な生活を勝ち取る日々を待っている。

■イスタンブル広域市庁舎向かいの野外トイレ

 町のほぼ中心地といえるシェフザーデバシュ地区の次の例は、数十の事件のうちのほんの一例である。イスタンブル広域市庁舎向かいの、ハーシム・イシュジャン通りの終わりにあるビザンツ遺跡群は、おそらく最も不幸なものであろう。6世紀に作られた聖ポリュクトゥス教会は、地域住民の意識の欠如によってまさにゴミ捨て場と化した状態だ。そこかしこに生えた雑草や茨も遺跡内の汚らしさを隠せてはいない。入り口で立ち止まって中を観察した短時間の内にも、当惑と遺憾の感情が浮き彫りになるような光景を目撃した。地面の上に突き出た柱群とアーチの中に放り込まれたゴミの山の一方で、ここは地域の人々によって公共のトイレに転じている。イスタンブル大学神学部に抜ける近道と通る何十人もの人が、周囲の視線を無視してトイレとして利用しているのだ。由緒ある礼拝所の両端にある門が開けっ放しであることで、シンナー中毒者や酔っ払いのような人々がここに居座る結果となってしまった。身なりのきちんとした、ネクタイ姿の人々もここをトイレとして利用していることは、問題の別の重大な面の表れだ。発生している強烈な尿の臭いが、すぐ隣の公園にまで臭ってきている。この状態がイスタンブル広域市庁舎のすぐ隣で起こっているということが、ことの最も痛々しい一面なのだ。

 放置と地域住民の無神経さのために、ごみ捨て場と化した聖ポリュクトゥス教会は、歴史的史料からわかる限りでは、西暦524~527年にローマの軍人ポリュクトゥスの名で建造され、アヤソフィア以前において街で最大のバシリカ様式の建物の1つだった。2500㎡の敷地に広がる教会遺跡は、1960年代に、その当時の名前でいうサラチハーネ通りの建設ため行われた掘削発掘中に初めて発見され、イギリスとアメリカの考古学者の行った作業によって世間に知られることとなった。12世紀にイスタンブルを略奪した十字軍は、街の大部分を略奪した折にこの教会をも襲ったと言われている。イタリアのヴェネツィアにあるサンマルコ教会の一部と支柱がこの教会から持って行かれたものとは、愛好家たちの知るところである。

■フィラントロポス修道院はシンナー中毒者のもとに

 イスタンブルの古い城壁のうち、アフルカプ海岸にある城壁に隠された修道院は聖フリストフ・フィラントロポスに捧げられたと伝えられている。1307年に建設された海岸の教会では一時は男女の部署があり、また(ギリシア正教会でいうところの)聖なる泉が存在すると言われている。古い記録では、ギリシア人たちがここで聖なる日々を追憶していたとも書かれている。すぐ隣の「タイル亭」の泉は排気ガスによって黒くなり涸れている。教会の現在の住民はというと、お察しの通り、麻薬中毒者で手に負えない。暗がりへと門から入る人々は、中の高い柱と飾りのついた柱頭がまだ存在すること、現在も壁の上にここから登れる通路があると話している。同じ状況は少し先のブコレオン海岸宮殿にも当てはまる。

■ファーティフでアスファルトに抗うローマ時代のアーチ

 ファーティフでどの石を取り上げようと、その下に古き時代に関する何かが見つかる。多くの火事、地震、洪水のような自然災害があったゼイレキ地域も、おそらく人々の手によるほど破壊を被ることはなかった。イフヴァン通りにあるアーチは、まったくの意識の欠如した建設の犠牲者だ。イスタンブルの旅人ウール・メタが見て伝えた光景では、レンガのアーチ群がほとんどアスファルトに沈んでいる。周辺住民は以前はここの中に入れ、廊下が複数の地下倉庫に通じていたと語っているが、1994年に建設されたコンクリートのマンションによって歴史的遺跡の上が完全に覆われてしまった。今では2つのアーチが地面の上に残っているだけだ。ひとつ下の通りからの景色も変わらない。ゲレンベヴィ通りとシェブネム通りの交差点で壁ほど高くなった遺跡を守ることはまだ可能だ。

■ここにショベルカーを…

 思い出して欲しい。2013年4月29日の演説で当時のレジェプ・タイイプ・エルドアン首相は、文化・自然遺産についてイスタンブル地域保護委員会がマルマライ計画の件で下した決定を批判する際、「(発掘された)僅かな土製の器が、マルマライ計画を4年遅らせた。ひどくはないのか、過ちではないのか?」といって計画を擁護した。今まさにこのことが歴史的な雄牛の広場で生じている。すなわち現在のベヤズィト広場のことだ。墓域のネクロポスとして知られる場所では、専門家、考古学者ともに必要とされていない。周りが金属板で覆われた発掘現場で予想されたことが起こった。建設を行う下請け業者はショベルカーで固い物体がひっかかったと伝えた。アスファルトのたった1.5m下で見つかったものは、複数の石棺の蓋だった。クレーン車によって考古学公園に運ばれた蓋の上のショベルの傷跡を、カメラは逃さなかった。

■カフェの下の「大宮殿」

 五つ星ホテルとして利用されている旧スルタン・アフメトの勾留所の前を通る通りを下る途中、向かいに立ち現れるカフェで少し立ち止まってみてください。壁にあるA4サイズの紙には英語で、「歴史的場所の見物は無料です」という文字にでくわすだろう。ここから中に滑り込むと、椅子の間に上を厚いガラスで覆った床を歩いていることに気付き、下にまっすぐ降りる階段に向かうことになるだろう。ここは、324~337年に建設されたコンスタンティノープル大宮殿が発掘された場所だ。ここは4~11世紀の間にビザンツ皇帝が招待客として訪れた大使や、影響力のある人々をもてなすために使った場所であり、銀の照明とライオンの像で当時、伝説的であった宮殿の、つまり大宮殿の謁見の間だったそうだ。ここを経営する会社は1996年に自社努力で発掘を行いトラック600台分の土を運び出すことに成功した。かのヒストリーチャンネルの番組のテーマともなった宮殿は、もっと広く人々に知られる必要がある。

■赤い小屋に泥棒が入る前に…

 スルタン・アフメトにある裁判所の建設は20世紀半ばのことであった。イスタンブルのいかなる場所でも建設することが出来なかった裁判所は、今日イスラム作品博物館として使われているイブラヒム・パシャ宮殿の一部とビザンツ遺跡を犠牲として建設された。今では放棄されたこの複合建築物は、旧市街の額に打ち付けられた釘のようにそこにある。しかし裁判所の裁判官公園の中に保護に成功した場所があって、この価値を専門の芸術史家や歴史的芸術品の密輸業者は知っている。なぜなら裁判所の建設の間にビザンツ時代から残った壁はなんとか保護することに成功していたからだ。今日その周囲が小屋で囲われた壁には、キリスト教徒であったために殺された聖エウフェミアの拷問の場面が描かれている。芸術史家のハルドゥーン・ヒュレルの伝える限りは、ここは泥棒がよく知る場所という。しかしこのフレスコ画を海外の博物館で見たくないなら、錆びついた錠がかけられたプラスチックの門に[フレスコ画の保護を]委ねてはならない。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:35672 )