エクレム・ハック・アイヴェルディ没後30年の追悼展が開催されている。建築、蒐集、修復というアイヴェルディ氏の3分野の功績を取り上げた展示会では、彼の修復プロジェクトから、コレクションの比類ない書道作品群に至るまで、数多くの作品が展示されている。
ベイオール区テペバジュにある「スナとイナン・クラチ財団イスタンブル研究機関(İAE)」で先週から開かれている展覧会は、我が国の文化を知りたいと思うすべての人の関心を引くものだが、ファーティフ地区の住民はより強く興味を引かれている。注意深い地区の住民は、ファーティフの大通りやコユンババ公園で「アイヴェルディ」という姓を絶対に目にしていることだろう。では、フェヴズィパシャ大通りにある記念館にはお気づきだろうか?扉にある看板に「この家に思想家で作家だったサミハ・アイヴェルディ氏とその家族が住んでいた」とあるあの家の建築と中の芸術作品や貴重な品々の持ち主こそ、その兄で作家のエクレム・ハック・アイヴェルディ氏だった。あなたが毎日前を通り過ぎている家の希少な作品たちをそこでは見ることはできないが、2015年3月28日までİAEを訪れることが出来る。
エクレム・ハック・アイヴェルディ氏が我が国の文化人の一人であることは断言できるが、しかしあれほどの作品を残しているとは!オスマン建築の専門家で8巻に及ぶ建築史書は誰しもが知るところであり、更には修復師であり、蒐集家である側面も忘れてはならないだろう。展覧会では彼のこの3つの面について取り上げられている。トプカプ宮殿を始めとしてイスタンブル、エディルネ、ブルサの数多くの歴史的建築物が今も健在であるのは、彼が1940~50年代に行った修復活動の賜だ。展覧会で我々が最も注目する文書もこの時期に関するものだ。トプカプ宮殿の修復前の悲惨な状況を映した写真と、宮殿の修復のため1942年に政府から彼に5万2千トルコリラが支払われた証明書(上に小さな写真付)が興味を引く。
オスマン帝国末期の宮殿がどれほどむげにされていたかこの文章から伺うことが出来る。「聖上衣の部屋」は、居室と宝物庫の他の全部分が悲惨な状況だった。「エクレム・ハック・アイヴェルディ-建築歴史家、修復師、蒐集家-」と題する展覧会の学芸員はイスタンブル研究機関科学委員会長であり、同時にアイヴェルディ家を子供の頃から知るバハ・タンマン博士だ。彼はアイヴェルディ氏自身から聞いた話を以下のように話す。「修復師として仕事をするなら、それは簡単です。しかし私は彼から聞いたのです、『予算が足りないときは私費を投じたこともあった』と。彼は仕事をただ商業的論理によって見ず、愛をもって行っていたのです」
展覧会での蒐集品の見所は、書道、挿絵、製本といったオスマン朝期の書籍類だ。これに加えてセルジューク朝期とオスマン朝期のタイルで西洋式絵画を描いたシェケル・アフメト・パシャやホジャ・アリ・ルザといった画家の作品がある。タンマン博士によると、1940年代当時のエリート層がヨーロッパ製の小物を蒐集したとき、エクレム・ハックさんと数名がこの作品の整理に尽力したようだ。彼らはただ、これらの作品を外国人の手に渡してはならないと案じていたのだ。
(写真はファーティフ区にあるエクレム・ハック・アイヴェルディ氏が自身で建てた家、1939年)
展覧会での蒐集品は記念館から持ち込まれたほんの一部にすぎない。アイヴェルディ氏が学生時代に描いたモスクのスケッチやカラヒサリの書道作品、ミマール・スィナンの伝記と作品郡が記された有名な”Tezküretü’l-Ebniye”の転写、セリム3世のトゥリ・スィナ修道院の免税とオスマン帝国の庇護のもとにあることを証明する文書一点とその他多くの品があなたの興味を引くだろう。願わくは、アイヴェルディ氏がクッベアルトゥ財団に寄贈した蒐集品のすべてを、いつかペラ博物館のように「社会の記憶に入った」博物館の1つで見たいものだ…
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( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:35875 )