ドラマ「ダ・ヴィンチと禁断の謎」バヤズィト2世役のアクン・ガーズィ・インタビュー
2014年12月20日付 Radikal 紙
「ダ・ヴィンチと禁断の謎」(原題Da Vinci's Demons)でのバヤズィト2世役で世界的に知られるようになったアクン・ガーズィと、ヒュッリイェト紙のスィネム・ヴラル記者が会談した。この若い俳優はキプロス系トルコ人の家庭出身で、ロンドンで育った。映画「ザ・カット」で共演したファーティフ・アクン(アキン)監督について、「ファーティフ・アクンはタブーに関する映画を作るくらい勇敢な人物だ」と述べている。
-トルコの人々があなたの名前を何故今まで耳にしなかったのか、というところから…
全くないよりは遅いほうがいい!人々は人生のそれぞれのステージで開花します。若いころはもっと勝手で、自分のキャリアに今ほど焦点を当てていませんでした。当時はただ楽しんでいましたが、今は仕事と演技のバランスを捉えました。
-あなたはキプロス出身ですが、ご家族はいつキプロスを離れたのですか?ロンドンでの子供時代は?
父は1968年に、キプロス島での紛争が原因でキプロスを離れました。私はまだ14歳でした…。英語も知らなかったため、適応するのは大変でした。母はロンドンで生まれ、その後赤ん坊の頃にキプロスに戻りました。4年間キプロスで過ごした後、再び戻ってきていました。私にとって幸運だったのは、普通の子供時代を過ごせたことです。家族は私と兄弟が快適な生活を送れるよう、とても努力してくれました。生活が大変な時も父は私の教育を非常に重視しました。ポケットに最後の5ポンドしかない時でさえ私たちを飢えさせなかったことを覚えています。一方で自分の仕事場に私も連れて行きました。小さなアシスタントとして、父がテレビや電化製品の修理をしているところを見ていました…。
-キプロスかトルコに行き来しますか?
祖母に1989年にキプロスに連れて行ってもらいました。軍の兵舎を訪れ、家族が育った場所を見ました。その後キプロスに行くことはありませんでしたが、トルコには何度か来ました。自分のルーツとの繋がりは実のところやや複雑です。家族はナショナリストでケマリストでした。私はこのような環境で育ちました。成長する間トルコ人のうぬぼれを否定していました。「僕にとって人は皆同じだ」と。トルコ文化がどのように多層的で、魅惑的なほど多様であるかということに気づきました。トルコは世界の中心に位置し、自分がトルコ人であると言えることを幸せに思っています。初めてイスタンブルを訪れた時、自宅に帰ってきたかのように感じ、イギリスでは決して感じることのなかった認識に気づきました。
-いつ俳優になろうと決心したのですか?
常に人を笑わせるのが好きでした。いろいろなコスチュームを着て、声を変え、ものまねをしていました。自分には他のチャンスはないのではないかと感じていました。夢を追いかけ、情熱によってここまできました。しかしこれに関して家族の支持は得られませんでした。
-つまり?
私のためを思って恐れていたのです。俳優になれば一生貧乏で過ごすことになるかもしれないと。
-あなたは怖くなかったのですか?
怖くありませんでした。どんな障害も乗り越えてきました。夢の力とそれが出来ると信じるくらい強い自負がありました。
-子供の頃、プリンスとマイケル・ジャクソンのものまねを一番よくされたとか。
衛星放送でMTVを見ていました。衛星放送のおかげで私たちの庭はNASAの宇宙センター同様でした。父が3本の衛星放送のアンテナを設置していたので。音楽が大好きだったので、いつもMTVを見ていました。マイケル・ジャクソンやプリンスのビデオも録画していました。今でもプリンスが大好きです。最高のミュージシャンです。もはや彼を模倣してはいませんが。思春期にプリンスを真似して女性に関しては成功したと思っていました。16歳の少年にとっては重要なことでした(笑)。
-ドラマ「ダ・ヴィンチと禁断の謎」で王子バヤズィット2世を演じていらっしゃいますが、映画「おいしいコーヒーの真実」(原題Black Gold)でも王子役でした。スルタンらしさはあなたの中にあるのでしょうか?
いつも王子になりたいと思っていました(笑)。昔の大家は私のことを「アラブ人の王子」と呼んでいました。私も「トルコ人の王子と呼んでくれ」と言っていました。冗談はさて置き、高貴の人を演じるのは面白いです。わずかな間でもバヤズィトになれるのは私にとってとても光栄なことです。征服者スルタン・メフメトは我々の歴史の中で大きな位置を占めています。成功はすなわちその人を超人的な存在にします。バヤズィトは父親の影から脱しようとしています。ちょうどロック・ギタリストを志したジミ・ヘンドリックスの息子も常に父がどれほど素晴らしいかを思い知らされていたように!
■バヤズィトは父である征服者とは反対にヒッピーだった
-「ダ・ヴィンチと禁断の謎」には第2シーズンから出演されていますが、どのように選ばれたのですか?
2回面接に行き、自分のことを「この役を演じるのは自分の運命です」と説得しました。
-それはなぜ?
子供の頃に父からオスマン帝国の物語を頭いっぱいに詰め込まれました。それらの物語は私にとっていつも魔法のようで、遊牧民が世界最大の帝国を創りあげたということに感銘を受けました。監督や脚本家にオーディションでこの話を最初から最後まで知っていること、この人物の魂を理解していることを伝えました。父親に比べると、バヤズィトはヒッピーでした。バヤズィトは水を改善させ、世界最高の病院を建設させ、労働者の権利を重視していました。父親や息子のセリムのような戦争支持者ではありませんでした。
-ドラマの中で話しているトルコ語が批判されましたが、これらの批判による影響は?トルコ語は上達しましたか?
成長過程でトルコ語をあまり喋らなかったため当然なまりがあります。みんなを幻滅させたかと、批判には悲しくなりました。当時から今に至るまでトルコ語上達に努めています。勇気は言語を話す上での最大の要因です。このドラマの第2シーズンの最終回では私のトルコ語はよりうまくなったと感じていました。初回の印象は忘れられるようなものではありませんが、あらゆる機会にトルコ語と英語くらい上達するよう努めています。
-では第3シーズンは?
残念ながらまだ情報がありません。申し訳ない。
■ファーティフ・アクンはタブーを映画にするくらい勇敢
-フラント役を演じた「ザ・カット」について。この映画についてどう考えていますか?また、この映画の脚本を理由にファーティフ・アクンも批判の対象になっていますが。
ファーティフ・アクンはタブーについて映画を作るくらい勇敢な人物です。「ザ・カット」も偉大な芸術作品がやったのと同様、現状に問いを投げかけている。私としてはすべてのトルコ人がこの映画を見るべきだと思います。自分たちの過去と向き合うべきです。この素晴らしい映画の中では人間性の核の部分までむき出しにされます。単一民族であることの最高の面と最低の面を眼前に晒しています。
-タハル・ラヒムと再び共演してどうでしたか?
タハルは私にロバート・デ・ニーロの若いころを思い出させます。目ですべてを理解できるからです。映画「おいしいコーヒーの真実」では兄弟を演じました。2人ともファーティフ・アクンの映画で演じたいと思っており、2年後にこの夢は現実になりました。
-ではファーティフ・アクンについては?
ファーティフ・アクンと共演することは私の夢でした。彼はただ素晴らしいアーティストであるだけでなく、同時に素晴らしい人間です。彼の監督作品を経験することは比類ない経験でした。結果として彼の知性は感受性と組み合わさりスクリーンに映しだされました。私にとって、「ザ・カット」はアルメニア人とトルコ人を同じ場所に集めるもので、まさにこのためこの映画に参加出来たことをとても光栄に思っています。ファーティフは撮影セットの中で平等な雰囲気を作りました。全員がとても重要で、私たちのエネルギーもとても高まりました。つまり彼は本物のリーダーでした。私が役を出すために十分な場所をくれました。役についての考えがとてもはっきりしていたので、見た人は自分の手の中ではなく彼の視点から見ることになるでしょう。撮影については素晴らしい思い出がありますが、特に1つが思い出されます。「葬式のシーンで涙を見たい?」と私が質問したところ、「君のではなく観客の涙が必要だ」と言われました。
■息を引き取るまで俳優をやりたい
-監督たちはなぜあなたによくアラブ人の役をあてるのでしょう?
私にアラブ人の血が流れているからでしょう…でも本当になぜイギリスとアメリカでトルコ人の役よりもアラブ人の役を演じているのか、私にもわかりません。私の名前は適応し、幸運な事に多くの民族に適した顔をしています。
-俳優としての目標は?
もしいつかオスカー賞を獲得したとしても、馬鹿な奴に変わることなく息を引き取るまで俳優をやっていること…デヴィッド・リンチやマーティン・スコセッシ、そしてやはりファーティフ・アクンと仕事をしたいです。
-ではいつかトルコで仕事をすることも?
機会があれば。そしてトルコで仕事をしつつ将来西で仕事をするのか東で仕事をするのか決めるでしょう。
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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:36281 )