セマヴィ・エイジェ博士は、アヤソフィアを博物館とすることに関する指示をした人物について、アタテュルクではなく当時の教育省大臣であったゼイネル・アビディン・オズメン氏であったとの見解を示した。
ビザンツおよびオスマン芸術史の専門家であるエイジェ博士は、アヤソフィアの博物館化に関し、新たな見解を示した。アヤソフィアの博物館化において主な役割を担った人物が、アタテュルクではなく当時の教育省大臣、ゼイネル・アビディン・オズメン氏であったと述べたのだ。エイジェ博士は、「博物館の館長が初代のムザッフェル・ラマザンオウル氏だった頃、私はオズメン氏がアヤソフィアにある記録簿に記していたものを読みました。記録簿の最初のページには、オズメン氏の直筆で『私が最初の指示を出した』との文章が刻まれていました。しかし記録簿はその後人目から姿を消し、私がラマザンオウル氏の後継の館長らにその所在を尋ねても、彼らは知らないと答えるのみでした。最初の記録簿がいま現在どこにあるのかを知る人物はいません。もしも発見されれば、 真実も明らかになるでしょう」と述べた。
『イスタンブルの恋人』として知られ、40年もの間記念碑委員会でも委員を務める92歳のエイジェ氏は、アヤソフィアを最もよく知る人物の1人としても知られている。エイジェ氏の衝撃的な発言は以下の通り。
■「アタテュルクの指示はない」
「私は、当時のアビディン・オズメン教育省大臣がアヤソフィアの最初の記録簿に記したものを読みました。アタテュルクからの直接の指示はなかったと書かれていました。オズメン氏は、アヤソフィアのモザイク画を綺麗にし、修復することを請け負っていたアメリカのトーマス・ウィットモア氏が1934年にアタテュルクに対しアヤソフィアの博物館化を提案していたこと、これを受けてアタテュルクが大統領府での夕食会で客人らに、アヤソフィアを世俗化し博物館とすることについての意見を問うていたことなどを記していました。大臣は『その翌日、私は最初の指示を出した』と書いたようです。アタテュルクが博物館化に関しての指示を出したという情報はありません。オズメン氏は記述の中で、アタテュルクがアヤソフィアの博物館化を望んでいること、またその指示については彼自身が出したことについて書いたと思われます。オズメン氏の記述が公の場に出れば、アヤソフィアについての閉ざされたベールが開かれるでしょう。トルコの印がアヤソフィアから取り出されることを望む、隠れた勢力があります。この隠れた勢力は、ありとあらゆることをやります。私たちの文化には、教会から姿を変えたモスク、という伝統があるのです。金曜日の説教ではイマームが刀を持って説教壇にのぼり、説教壇の階段毎に一本ずつ旗があったのです。しかし今、アヤソフィアの旗や説教壇の刀はありません。以前館長らに刀や旗の所在を尋ねたのですが、知らないとの答えでした。」
■にせの署名に関して議論
かつてトルコ歴史協会会長であり、民族主義者行動党(MHP)の会派副代表であるユスフ・ハラチュオウル氏は以前、アヤソフィアの博物館化に関する決定の文書にあるアタテュルクの署名が偽物であると主張し、またアヤソフィアを再びモスクとすることをトルコ大国民議会に提案していた。
■「シルエットが消えてしまった」
アヤソフィアとその周辺が地下貯水槽で一杯であるとしたエイジェ氏は、「潜水夫らが地下貯水槽に入り、調査を行いました。これについての調査報告はありません。地下にビザンツ時代の柱と回廊があることが判明しました。しかし具体的にどういったものがあったのかについては情報の提示がありませんでした。1500年もの間残っている地下倉庫に落ちた金属加工品が必ずあるはずです。アヤソフィアと、そして歴史的な半島で行われた調査結果は、 明らかにされるべきものです」と語った。
またエイジェ氏は、今日イスタンブルの歴史的建造物に深刻な損傷がみられると述べ、「イスタンブルは、イスタンブルであることをやめてしまった。歴史的な建造物を失ってしまったのです。40階建てのビルを建てることは、イスタンブルの価値を高めることではないのです」と述べた。
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( 翻訳者:木全朋恵 )
( 記事ID:36354 )