我が家の病人が死んでも、輸血されるよりはまし!(3)
2015年01月21日付 Iran 紙

【イラン紙ショック班の分析】今や母親の命は失われ、わが子の顔を見たいという彼女の望みも潰えてしまった。そしてこの赤ん坊は、母親という存在を奪われたのである。

 今回のような珍しい出来事に関して、実際問題としてわれわれに何が言えるだろうか。誰に責任を取らせるべきなのだろうか。この母親が死亡したこと、赤ん坊が母親を奪われてしまったということ、そしてその他、数多くの答えのない問いに、誰が答えることができるというのだろうか。

 患者の家族はどんなときでも、医師の忠告を無視し、血清投与や輸血をはじめとする治療行為の継続をやめて、患者を退院させ、別の場所に移すことができるという論理は、果たして受け入れられるものだろうか。

 もし患者が病院で、あるいは手術室で命を落とすようなことがあれば、われわれは〔医療過誤の可能性を〕主張し、責任を問うことを、あらゆる人の権利であると考えているが、しかし付添人の判断や彼らによる遅延行為が原因で患者が死亡したことに対しては、我々は何もすることができないというのは、どういうことだろうか。果たして患者が生き続けることを認めるか認めないかの権限は、患者の父親や母親、あるいは配偶者の手にのみ握られているということなのだろうか?

 「なぜ必要なときに、必要な医療措置が提供されるのを阻んだりしたのか」「この母親を死亡させた真犯人は、恐らくあなたたちだ」と、この患者の家族を非難することのできる人など、今日いるのだろうか?

 この母親の死に関して何ともやるせないのは、患者の死後、彼女の家族が無意識的に他人に罪を着せ、治療が適切ではなかったと主張していることである。このような出来事がなぜ起きてしまうのかについての科学的・学術的調査やフィールドワークは、残念ながらこれまで行われてこなかった。〔地方の〕開発やインフラ整備に関する〔国の〕決定と並行して、文化的・社会的分野や社会全体の状況改善について、根本から考える必要があるだろう。

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( 翻訳者:HRK )
( 記事ID:36787 )