フダイビーヤの和議を曲解するな(1)
2015年01月17日付 Jam-e Jam 紙

 イスラーム初期の時代の最も重要な出来事の一つである、ヒジュラ暦6年の「フダイビーヤの和議」に関する再解釈が、最近話題を呼んでいる。「英雄的柔軟性」への道を開いたと言えるこの重要かつ歴史的和議を、誇りを失った自らの態度の根拠にしようとする者たちが、一部にいるためだ。

 「フダイビーヤの和議」とは、次のような出来事のことである。預言者ムハンマドはバドル〔の戦い〕やバニー・ナズィール〔との抗争〕、そして塹壕〔の戦い〕で大勝利を収め、メディナにイスラームを完璧に打ち立てた後、多神教徒のアラブ諸部族をイスラームに惹きつけ、イスラームとイスラーム教徒の偉大さと栄光を宣伝するなどの、高邁な目的を達成し、それと同時に〔預言者ムハンマドとともにメッカからメディナに移り住んだ〕ムハージルーンたちとその親族の再会を実現させるために、ウムラ(小巡礼)を計画した。預言者はその際、ウムラに成功しようと、多神教徒たちが預言者の行く手を遮ろうと、いずれの場合でもイスラーム教徒が利し、多神教徒のクライシュ族が害を被るよう、準備をした。

※訳注:「バドルの戦い」は624年にムハンマド軍とメッカ軍の間に起きた大規模な戦闘で、その結果、ムハンマド軍が勝利を収め、メディナでの地位を確立した。「バニー・ナズィール」はメディナ在住のユダヤ教徒で、聖遷後のムハンマドと対立し、同じくムハンマドと対立していたメッカのクライシュ族にムハンマド討伐を要請した人物。その結果、「塹壕の戦い」が627年に勃発した。この戦いで勝利を収めたムハンマド軍は、メディナでの支配を万全のものとした。

 預言者はメッカに向けて移動し、フダイビーヤという名の地域にキャンプを張った。多神教徒たちはそれを知って、預言者のメッカ入場を阻止しようとした。彼らは代表者らを預言者のもとに送り、クライシュ族の代表者と預言者の間で、数回にわたって話し合いがもたれた。その結果、「フダイビーヤの和議」と呼ばれる7項目からなる条約が、預言者とクライシュ族の間で結ばれた。

 和平条約が作成される過程で、一部の内容が削除されたり、付加されたりしたが、一部のイスラーム教徒はこの和議を、多神教徒に対する預言者の後退と理解した。確かに、表面上はその通りであった。しかし最終的に、この和議は偉大なる預言者の運動がいかに綿密に計算されたものであったのかを、示すものだった。

つづく


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( 翻訳者:エンアルケ・エンホロゴス )
( 記事ID:36817 )