信じがたい、認めがたい死というものがある。ゼキ・アラスヤの死も、トルコ全土にこうした心情を与えた。ゼキ・アラスヤとメティン・アクプナルの二人と共に笑いながら成長した世代は、今日ゼキ・アラスヤが生涯を終えたことによって、2015年5月8日の朝をとても悲しい思いで迎えた。では、一体何が私たちにゼキ・アラスヤをこれほどまで愛させたのか?それでは、イェシルチャム(注:トルコ映画界の通称)の伝説となったゼキ・アラスヤの生涯を紹介しよう…
イェシルチャムの幾人かがもう私たちの間にいないことは本当に信じがたいことだ。サドリ・アルシュク、ケマル・スナル、ほかにも多くの素晴らしい俳優たちはまるでまだ生きているかのようだ。彼らの中に今日また一人、伝説的名優が加わった。受け入れることはとても難しいが、我々をこれまで幾度も笑わせてくれたゼキ・アラスヤが2015年5月8日の朝に我々の前からいなくなった。彼が失われたことにより、我々の記憶に残る(ゼキ・アラスヤが創設メンバーの劇団)「デヴェクシュ・キャバレー」は「孤児」になってしまった。メティン・アクプナルとのコンビも、もう二度と見ることができなくなるだろう。ゼキ・アラスヤがいないということは、これからの人生がもはや少なくとも昔ほど面白くはならないだろうということだ。トルコは、ゼキ・アラスヤという偉大なアーティストを永劫へと見送る。若い世代には「キュチュク・アー」や「アカスヤ停車場」のようなドラマで知られるゼキ・アラスヤの芸暦は、イェシルチャムの歴史そのものだ…
ゼキ・アラスヤは1943年4月18日に生まれ、素晴らしい72年間の人生を送った。牡羊座が与える壮健な身体をもち、16歳で役者の道に入り、ある時は劇場を、またある時は映画のセットを、またある時は娯楽の場を楽しませた。キプロスをルーツに持ち、イスタンブルで生まれたゼキ・アラスヤは、ロバート・カレッジを卒業後MTTB劇場でアマチュアとして演技の世界へ一歩を踏み出した。
アレナ、ゲナール、ウルヴィ・ウラズなどの劇場で舞台演技を始め、その後長年に渡り2人揃って記憶される生涯の友、メティン・アクプナルともこの時期に出会った。イェシルチャムの大御所コンビがこの時期に共演した中でもっとも際立った作品は、1965年に上演されたルファト・ウルガスの不滅の作品、「ハババム・スヌフ」である。
ゼキ・アラスヤはその後1967年にハルドゥン・タネル、メティン・アクプナル、アフメト・ギュルハンとともに劇団「デヴェクシュ・キャバレー」を創設しトルコで何年も続く伝説の基礎を築いた。その後、ハルドゥン・タネルと別々の道を歩むことになったゼキとメティンのコンビは、デヴェクシュ・キャバレーの伝説を90年代初めまで続けることに成功した。
ゼキ・アラスヤの映画撮影への移行は1972年に実現し、初めに「カラオーランがやって来る」という作品で「チャルク」役を務めた。同年、「セヴ・カルデシム」, 「タルカン-黄金の褒章-」そして「タトゥル・ディルリムのようなプロジェクトでイェシルチャムへ確かな一歩を踏み出したアラスヤは、後に1年間に7本もの映画に出演する輝かしい時代を過ごした。
キャリアを積んでいくこの時代、ゼキ・アラスヤと完全にペアになって繰り返しカメラに向かっていた一方で、エメル・サユン、ハリト・アクチャテペ、タールク・アカン、ケマル・スナル、ミュニル・オズクル、そしてアディレ・ナシトといった役者たちとは様々な作品で幾度となく共演した。
イェシルチャムの黄金メンバーに常に名を連ねる一人となったゼキ・アラスヤは、90年代になるとテレビドラマにも出演するようになった。この時期にも何度もメティン・アクプナルと一緒にカメラの前に立ったが、監督としてのキャリアにおいても重要な成功を収めた。
夥しい数のプロジェクトで満ちた彼の仕事人生の中には、CM映像、娯楽施設での出演、メティン・アクプナルと始めた事業があり、彼がどれほど勤勉な人柄であるかを示している。
ゼキ・アラスヤは、70歳を過ぎてから、Dチャンネルで放映された「キュチュク・アー」シリーズのドラマで最後に人々の前に現れた。2015年5月8日に私たちと別れたゼキ・アラスヤを、私たちはとてもとても恋しく思うことだろう…
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( 翻訳者:岡田咲月 )
( 記事ID:37469 )