政界からデミレル氏がいなくなった。過去50年のトルコの政治には、常に彼の存在があった。首相として、野党第一党の党首として、政党活動禁止時期は「真相を握る者」の一人として、そして大統領として…。記憶に残るその功績、今なお使われる独特の「デミレル節」、そしてまさにトルコの民主主義と自身のイメージを確固たるものにしたフェルト帽。ババ(訳注:トルコ語で「お父さん」)の愛称で親しまれ、帽子がトレードマークだった。91歳の彼を失ったことで、トルコはある意味頭を失った。
政界に、1962年、公正党執行部メンバーとして入った第9代大統領スレイマン・デミレル氏が本日2時5分その生涯を閉じた。トルコ政界の「ババ」は、ウスパルタで[の葬儀で]旅立っていく。
先月13日病院へ搬送されたデミレル氏の容態は深夜に悪化し、2時5分、懸命の治療もむなしく、亡くなったと発表された。デミレル氏の訃報を、ギュヴェン病院の医師バヌ・アクン氏は認めた。
デミレル氏が(故郷の)イスラムキョイに埋葬されることは以前から明らかとされてきた。「スレイマン・デミレル民主主義博物館および複合施設」のあるイスラムキョイが見渡せるチャルジャ丘陵には、デミレル氏のために10平方メートル、深さ3メートルの記念碑用墓が準備されていた。デミレル氏の遺体はこれまで、イスラム キョイ墓苑にある家族用墓地に、妻のナズミイェ・デミレル氏の墓の隣に埋葬されるとされていたが、それが記念碑の建設予定地になるか、はたまたチャルジャ丘陵の新しい場所になるのか、まだ詳細は分かっていない。
デミレル氏の亡骸は国葬式典後、金曜(19日)にイスラムキョイで埋葬される。
■スレイマン・デミレルとは?
ウスパルタ県アタベイ郡イスラムキョイ出身。初等教育は生まれた村で、中等教育はウスパルタ、アフヨンで教育を受けた。1949年2月にイスタンブル工科大学建築学部を卒業。同年、電気研究局で勤務を始める。1949~1950年、1954~1955年にはアメリカ合衆国でダムと利水開発、電力開発の研究を行った。1954年にダム局局長、1955年には水資源管理総合局長となった。
1962年から1964年にかけてはフリーランスのアドバイザー・エンジニアとして働き、同時に(アンカラの)中東工科大学で水力工学について教鞭を取った。
■政界入り
政界入りは、1962年、公正党執行部メンバーとしてスタートを切った。1964年11月28日に同党の党首に選ばれた後、その成立に尽力した1965年2~10月の連立政権で副首相を務めた。同年10月10日に行われた総選挙では、代表を務める公正党が53%の得票率で単独政権の座を獲得した。この選挙でウスパルタ出身の国会議員として国会入りし、トルコ共和国第12代首相として組閣した。
この政権は4年間続いた。1969年10月10日の総選挙で公正党はまたも単独で政権を取り、トルコ共和国第31代内閣を組閣。その後党内の争いが生まれ、第32代内閣を組むことになった。1971年3月12日、軍部の覚書を受け、首相を辞任。1971~1980年のうち、75年、77年、79年の3回内閣を組織した。1980年9月12日クーデターを受け辞任し、そして7年間政党活動を禁止された。1987年9月6日の国民投票で罪を解かれ、同月24日、正道党の党首に選ばれた。
■40歳で大統領に
1987年11月29日に行われた総選挙で、ウスパルタ選出国会議員として再度トルコ大国民議会入りを果たした。91年10月20日の総選挙後、正道党は社会民主人民党と結び、トルコ共和国第49代内閣を組閣、首相となった。30歳で局長、40歳ではまず党首その後首相を務めた。12年に及ぶ首相時代、デミレル氏はトルコの発展と拡大に大きな貢献を果たした。トルコで最も若い局長、最も若い首相、そしてイスメト・イノニュ以降、最も長く首相を務めた人物なのである。ウスパルタ選出の国会議員を6期務め、7年間の政党活動禁止、6度内閣総辞職、7回組閣を行った。93年5月16日には、トルコ大国民議会よりトルコ共和国第9代大統領に任命された。デミレル氏は大統領を2000年5月16日まで続けた。
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( 翻訳者:池永大駿 )
( 記事ID:37871 )