オスマン帝国皇帝、「冷酷者」セリム1世が「私が死んだときには墓の上に掛けてくれ!」と遺言し、2006年に至るまで霊廟の棺の上に覆いとしてかけてあった有名な「泥つきの上衣」は、9年間再びそこに置かれることを待っている。
セリム1世は最も非情なオスマン帝国皇帝の一人だ。規律のなさやいい加減さは決して許さなかった。「冷酷者」の異名もこの特徴のためについたと言い伝えられている。王子時代からイェニチェリ(軍人)たちに慕われていたとされる理由の1つとして、やはりこの非情な性格があげられる。セリム1世のこの特徴は、その生涯をほぼ全て戦争の中で過ごすイェニチェリたちにとって好ましいものだったのは理解できるが、しかし行政官たちにとってはどうだったろうか?たとえば御前会議の宰相たちや、パシャや、大宰相にとっては…
■遠征からの帰還の際に
スルタン・セリムのこの特徴が、彼らにとって良いものだったとは言えないだろう。なぜならスルタンは行政官たちの最も小さなミスを最も重く罰することで有名だったからだ。8年の為政の内に多くの大宰相や宰相、パシャがスルタンのこの憤慨に晒されて、多くの者が命を落とした… 下された命令の追跡を行い、その結果を絶対に見たいと望む強大な皇帝に対して、宰相やパシャであることがいかにストレスもリスクも大きい仕事だったか推測に難くない…
スルタン・セリムはオスマン帝国の初代カリフでもある… エジプトを征服してオスマン帝国のスルタン=カリフ制を開始した人物だ。1517年にエジプト遠征から帰還した際、師であるケマルパシャザーデが彼の側に居て、彼らは軍隊を率いて会話をしながら前進していた。その時、ぬかるんだ場所を通り、ケマルパシャザーデの馬が突然暴れ、はねた泥がスルタンの上衣にかかった。
セリム1世の非情さを知っていたため全員が肝を冷やし、ケマルパシャザーデはというと頭を前に下げて、気に病んではいなかったが恥じていた。事態に気づいたセリム1世は「師よ悲しむな!あなたのような学士の馬の足からはねた泥は我らにとっては飾りとなる」と言って師に敬意を示した。セリム1世は上衣を脱いで宰相に手渡し、「これは遺言だ、私が死んだ時にこの上衣を我が棺の上にかけてくれ!」と言い、スルタンの死後この遺言は実現された。上衣は何年もの間、棺の上で覆いとしてそこにあった。
■9年間置かていない
霊廟が1925年に閉鎖された後、すでに長年の歳月でぼろぼろにすり切られていた上衣は、2006年に国民宮殿庁の管轄となり、その後博物館局に引き渡された。しかし墓の上にはかけられなかった。当時の霊廟博物館局は2012年に「ジレンマの中に我々はいます。一方では冷酷者スルタン・セリムの遺言があり、他方では上衣が霊廟の本来の特質を損なう状態にあったのです」との発表を行った。それから数年が経ったが、上衣は未だに棺の上にはない。博物館局によると上衣の修復作業は完了したが、「霊廟での適切な環境をいまだに保証出来ないこと」を理由に上衣は倉庫で「適切な環境で」保管されている… 霊廟での適切な環境がいつ保証されるかは未だ分からないままだ…
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( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:37991 )