Can Dundar コラム:ノーベル賞サンジャル氏は何人か?
2015年10月10日付 Cumhuriyet 紙

トルコはアズィズ・サンジャルという名前を新人俳優ほどすらも聞いたことがなかった…。聞くとすぐに「トルコ人か。クルド人か。アラブ人か」と議論し始めた。もはや病気だ...。しかしノーベル賞が発表になった際、サンジャル氏の名前の下に「ノース・カロライナ-アメリカ」と書かれていた。これは彼が表彰された研究を実現した大学の名前だ...。トルコ人でもクルド人でもアラブ人でもない、人間の能力に対し、その人の属性以上に価値を与える教育機関だ...。「何人か、どこの人か」という以上に、「何を発明したか」「何本の論文を発表したか」が問われる場所だ...。

トルコでは属性政治が私たちが世界とつながるチャンスの妨げとなった...。私たちは「祖国を最も愛する者こそが良い仕事をする」と思っていた。その後、仕事のできない人たちが悪事を祖国愛という入れ物に隠す時代が始まった。

学者、政治家、芸術家の能力でなく、属性やイデオロギーが議論された。多くはこれにより排除され、国を去ることとなった。彼らは派閥よりも知能を重視し、違いを豊かさとする場所で息をし、賞を沢山手にした。アメリカで人種差別がなくなっていなければ、アメリカの大学はこれらの賞を受賞できていただろうか。

政治でも同じ病気がある。
「完璧」で「誠実」であることではなく、「地元出身で愛国的である」ことが今の流行だ...。

先月エルドアン大統領は聴衆たちをRay-Banのサングラスの奥から見つめ、「国会に地元出身で愛国的な議員を送ること」を求めた。「おそらく私が何を言いたいかお分かりになったでしょう」と付け加えた。

おそらく「あなたたちが送り込む議員が外貨で得た賄賂を、家宅捜索の際に靴の箱に入れて海外に送ろうとする者であってはならない」と言いたかったのだ。もしくは、「サウジのパートナーのために町の中心の土地を安く押さえる圧力をかけない国会議員を送ってください」もしくは、「イラン人実業家によって雇われておらず、グーグルでコーランの一節を見つけて持ち出さない大臣たちを送ってください。」

「地元出身で愛国的」という言葉は私たちにこれらを連想させる。防衛をNATOに依存し、法律をEU基準で調整し、ヨーロッパ人権裁判所までいかないと不正行為の責任をとらない「外国資本が逃げればどう経済を立ち直そうか」と考えるトルコの大統領が、なぜ私たちに「地元出身で愛国的な議員」を求めるのだろうか。

この話の結論はサンジャル氏から聞こう。
「トルコの報道は見ていない。悲しいからだ。研究するのを引きとどめるのだ。」
文学部門で最初にノーベル賞を受賞したオルハン・パムク氏も話の中で次のように言っていた。「朝新聞は読まない。新聞は小説家の心を傷つけるからだ。気持ち良く一日を始められない。」

要するに、次の通りだ。
トルコが受賞した2つのノーベル賞は少しでも国の荒れた状況から遠ざかり、「愛国的であれ」という圧力を越えた能力のおかげだ…。これは、国内対応に忙しい「地元」精神が世界に開かれていないことを暗示している。

国を愛することは素晴らしいことだ...。しかし国はあなたを愛しているか。これも重要だ...。何人の知識人の名前を通りにつけたのか。銅像を建てたのか。官邸に招いたのか。今になって、彼の受賞したノーベル賞の名誉を搾取するのか。

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:38869 )