ノーベル賞のサンジャル教授、賞金は「チュルク・エヴィ(トルコの家)へ」
2015年10月18日付 Milliyet 紙
今年化学部門でノーベル賞を獲得した3人の科学者のうちの1人であるサンジャル氏は、彼のプランを説明した。サンジャル氏は、「アメリカのチュルク・エヴィ(トルコの家)のしっかりとした基盤を整えたい。この賞金はその基金に寄付する」と述べた。
電話の向こうの声は、生化学部門での発見によって医学において新たな道を開いたDr.アズィズ・サンジャル教授である。がん細胞のDNA修復システムを解明し、化学部門で今年のノーベル賞を獲得した3人のうちの一人であり、これによってトルコで初めて化学部門においてこの名誉ある賞を受賞した博士だ…。
1982年からノース・カロライナ大学チャペルヒル校での教員を勤めるサンジャル教授にミッリイェト紙の名でインタビューを行うため、彼のオフィスの電話番号をダイヤルしていた時、彼が直接私の前に現れるかすら、実は確信がなかった。
■熱いが疲れた声
アメリカ、イギリス、スウェーデンのメディアをはじめ、世界のメディアがルポルタージュを行うために彼を追いかけ、彼の成功と人生の話はトルコの報道、ソーシャルメディア上の情報やビデオでも広く行われている。そんなサンジャル氏は、確実に電話に自分で出られないくらい忙しいだろう。一か八かで留守電メッセージや秘書の声が出るのを待っていると、熱い、しかし疲れた声が、トルコ語で「もしもし」と言った。アズィズ先生だ。
自己紹介をし、ミッリイェト紙としてインタビューを申し込むため電話をしたと言うと、すぐに「朝からずっとしゃべっています。10分後にもアゼルバイジャンのラジオが電話をかけてきますが、よろしければ今話しましょう」と言ってくれた。時差にも関わらず、彼が根本的に「なに人」であるかに関する、怒らせるような質問から、若者へのアドバイスやノーベル賞の賞金をどこに使うかまで、多くの話題に言及した。
■「故郷のためにも嬉しい」
サンジャル教授に尋ねた質問とその答えは以下の通り。
これはあなたが非常に長い間研究されたプロジェクトによって受賞された賞ですね?
-はい。私は3つのテーマについて研究しています。DNAの修復と除去修復、フォトリアーゼ(紫外線によって損傷を受けたDNAを修復する酵素)です。フォトリアーゼについては90%ほどの研究を私が行い、そのメカニズムを解明しました。しかしノーベル賞のwebサイトで見る限り、それには触れられていません。この受賞はDNAの修復に対して与えたもののようです。5月に全てのDNAの遺伝子の修復地図を描きました。DNAの修復は、がんに対抗するという観点から重要です。なぜなら、がんの原因となる要素の多くは、DNAを損傷させるからです。私たちはDNAがどのように自己修復するのか、細胞ががんに対しどのように自己を守っているのかを解明しました。私の行った研究にとって重要な瞬間となりました。さらに私の家族のためにも嬉しく思いました。しかし私が一番嬉しく思ったのは、故郷のためです。トルコから多くの人が電話をかけてくれました。首相や大統領も…。」
■「驚きではない」
受賞を期待していましたか?サプライズでしたか?
-驚きではありませんでした。高確率で自分が受賞するだろうと言っていました。スタンドフォード大学生化学部の学部長とは以前からの知り合いで、4年前に彼とやり取りをしていました。退任されたので、お祝いしました。私に「DNA修復においてノーベル賞リストの一番上にいる」というようなことを言っていました。つまり、はじめてアメリカでそう言ったのは彼でした。しかし、驚くべきことは次のことです。受賞したもう1人はポール・モドリッチ、彼もデューク大学所属で、よき友人です。私は長年彼をノーベル賞候補だと思い、候補者たちのうち彼に履歴書を求めました。何の候補にしたのかはもちろん言えません。あなたをあるものの候補にしたいと言って、履歴書を受け取りました。しかしその件について私に電話してきたり質問したりする人はいませんでした。そのため、いつかはなるだろうとは言っていましたが、今年は期待していませんでした。これだけが驚きでした。
■「最初の船でトルコに送り帰されるべき」
アメリカに初めていらっしゃった時、トルコ人として困難はありましたか?差別を受けたと感じましたか?
-もちろんあります。しかし、そのことについてアメリカ人に怒ってはいません。たとえば、私は40年間ここにいますが、授業を行うときは未だに大いにトルコなまりがあります。特に最初の授業をしはじめたとき、学生たちは理解に苦労していました。ご存知でしょう、大学には年末に学生たちが記入する授業評価アンケートがあります。覚えています。最初に来た頃、ある学生が英語で次のように書きました。「彼は最初の船でトルコに送り帰されるべきだ!」(笑)私をここに招いた学部長は、マリー・エレン・ジョーンズという女性でした。数年前に亡くなりましたが、彼女は私を自分の子供以上に支えてくれました。私をあらゆる賞の候補に推薦しました。おそらくご存知でしょうが、「大統領若手研究者賞」というものがあります。レーガン元大統領がはじめさせたものですが、その賞の候補に挙げ、私はその賞を受賞できました。彼女が亡くなった後、我々はあるビルに彼女の名前を付けました。
■「ソーシャルメディアのアカウントは持っていない」
今後何をしようとお考えですか?特にノーベル賞で獲得した賞金を何に使うか、計画はありますか?
-我々は「トルコの家」のしっかりとした基盤を整えたいと思っています。現在我々が運営していますので。私は69歳、妻は66歳です。我々がいなくなった後どうなるか、それを心配しています。この賞金はその基金に使う予定です。トルコの家が継続されることができるようにと。同時に、このことも明言しておきましょう。私はフェイスブックにも、ツイッターにも、アカウントは持っていません。誰かが始めたようですが、我々はそのアカウントを閉鎖させようと動いています。
ソーシャルメディアを今後使おうとお考えですか?
-ここでソーシャルメディアの使い方において最も成功した人物は、我が大学のゼイネプ・チュフェクチという女性です。彼女に相談して、アドバイスをもらうかもしれません。
■「年に一度はトルコに」
しばしばトルコに行かれているのですか?夏は大体トルコで過ごされるのですか?
-年に1回行こうと思っています。9月9日にはトルコにいました。イズミルに生体医学ゲノムセンターという場所が開設されました。メフメト・オズチュルク氏がそこの長です。私もそこに行きました。ギョクハン・ホタムシュルギル氏とともに、科学顧問委員会にいました。
■「トルコ人がこれをやったのだ、我々だってできる」
今いらっしゃる場所で、トルコに関して、トルコ人学生への支援に関して多くの活動をしていらっしゃいます。そこで開設されたトルコの家と夫人と一緒に設立された基金もあります。それらの活動についてご説明いただけますか?
-あれは実のところトルコ人の寮なのです。しかしそれほど多くの学生を受け入れる規模ではなく、最大でも5人が滞在できます。たとえば今週は大学院生2人、トルコから来た教授がいました。長期間であったり短期間であったり滞在するために来た人たちが滞在しています。独立した家屋で、大きな庭があります。すばらしい台所もあります。トルコ人女性たちがトルコ料理の授業を行っています。国民的、宗教的な祝日を祝っています。いくつかの会議も行われました。
トルコ人の若者たちに勧めることは?
-若者たちが本で私が行った発見を見て、「トルコ人がこれをやったのだ、自分たちだってできる」と言うことです。さらにアメリカに行った時にアメリカ人から敬意を表されたければ、まず自分に敬意を表すことです。自分への敬意とは、トルコ人であることを忘れないことです。私はトルコ人であると言う時、自分に誇りを持つことでしょう。それによって、相対している人もあなたに敬意を表するでしょう。若者たちにはこのことを伝えました。
■「まだ混乱している」
直近のBBCのルポルタージュで、貴方に「トルコ人ですか?」という質問がありました。実にお怒りのようでしたが…。
-怒っています。なぜならこれらのアッラーの異教徒は、そこを混乱していました。100年前に。今でも混乱しています。イギリスにはいくつの種類のエスニック・グループがあるのか、私は君に質問したか?アメリカにはカトリックがいる。ドイツ人も、イギリス人もいる。なに人か、と聞かれれば、「アメリカ人だ」と答えるだろう。それだけです。決してありえません。クルド人?それともアラブ人か?など。
あなたに「クルド人ですか?それともアラブ人ですか?」と聞いたのですか?
-最初の質問はそれでしたね。
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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:38940 )