コラム:フランスにおける文化とテロリズム
2015年11月20日付 al-Hayat 紙
本コラム著者
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■フランス:文化とテロリズム

【フサーム・アイターニー】

「公的知識人(public intellectual)」が重要な位置を占めるフランスでは、11月13日事件の直前とそれ以降の彼らの議論が、政治的コミュニティの次元、またイスラーム教徒少数派ならびに世界との関係の次元において、今後フランス国民が歩むことになる道筋を描く中で決定的な一部となっている。

パリ中心部の「シャルリー・エブド」誌とユダヤ教コシェル料理店を狙ったダーイシュ(イスラーム国)的手法の攻撃により引き起こされた議論が落ち着く前に、ダーイシュに取り込まれた集団が複数の流血事件を起こしている。そして、1月に起こったシャルリー・エブド攻撃の衝撃が冷めやらぬ中、ミシェル・ウエルベックが小説『服従』で示した考えが幅広い注目を集めた。同書はシャルリー・エブド事件のわずか数ヶ月前に出版され、その内容は、フランス社会が「緩やかに」イスラーム化し、エリゼ宮(大統領府)にムスリムの大統領が誕生するというもので、フランスのイスラームとそれへの対応をテーマとして扱っている。小説に示されたあからさまな人種差別的精神が、同書の考えを広め、強力な宣伝効果を得る一助となっている。またそれは、代表的エリート文化人から国民に向けたメッセージとみなされ、文学のみならず政治の分野でも解明の俎上にのせられている。

フランス諸都市で起きた1月11日の一連のデモは、政治・社会的解釈の枠内から自由にはならなかった。例えばエマニュエル・トッドは、著書『シャルリーとは誰か』でこのデモについて論じ、それによればこのデモは、共和国の価値を掲げると主張するが、しかしその旗印の下、デモの組織側と参加者の決定を反映したものであった。それは既に殺戮の道を切り開いた、政治・文化・社会的支配の原則を守るためのものである。

これにもかかわらず、確かなこととして、左派による反対や警告よりも、伝統主義と過激主義の二翼を有する右派の声の方が強かったのである。左派は、移民や、共和党幹部ナディーヌ・モラノ議員が言うところの「白い人種」ではないフランス人への対応においてファシズムに傾倒することへの警鐘を鳴らしていた。なお共和党は、フランス議会における最大右派ブロックとなる。多数の右派知識人、特にその筆頭であるアラン・フィンケルクロートは、その「白い人種」なる表現を用いたモラノ議員を擁護している。同議員によれば、その表現は第5共和制を創設したシャルル・ド・ゴール元大統領によるものであり、彼の大臣の1人の回顧録がその出典である。

フィンケルクロートは現在、「新哲学者」と呼ばれるグループを代表する人物であり、同グループは1968年の学生・労働者の大規模なデモの後に現れ、敵対者から「新反動者」と呼ばれる。彼は、クアシ兄弟によるシャルリー・エブド襲撃事件に関して豊富な解説と著作があり、2012年以降の彼のラジオその他でのコメントは、今年10月に出版された『唯一正しいもの(la Seule Exactitude)」と題された著書にまとめられた。同書の各論文により、フィンケルクロートが外国人を敵視する極右に傾倒していることが確実になった。外国人排斥派の極右にとって、外国人は「何を欲しているかわからず」、「都合の良いように特権を享受する」一方、シャルリー・エブド事件の犠牲者への連帯を示すことを拒否し、麻薬・失業・犯罪の蔓延といったフランス社会への全ての害の元となる存在である。

そして、フィンケルクロートは、左派の社会学者ピエール・ブルデューによるアプローチを前に人類学者クロード・レヴィ=ストロースによるアプローチが失われることに遺憾の意を表すに至った。彼の言葉によれば、支配する側とされる側の紛争の代償として、社会が文化を軸に一つとなるという考えが失われたことになる。レヴィ=ストロースの言葉に対するこの性急な解釈は、『ヌーヴェル・オブゼルヴァトゥール(le Nouvel Observateur)』誌上で、フィンケルクロートの著書に対して寄せられたオード・ランスリンの猛反論の中心であった。同誌は最近のパリ襲撃事件前日に、哲学者アラン・バディウによる公開書簡を掲載した。彼はその中で、フィンケルクロートが極右の底に落ちること、また、人種差別主義者が多元主義社会に襲いかかるために必要な正当性を彼が提供してしまうことについて警告した。

11月13日の事件に関する先の議論は、伝統的社会的概念についての古い議論の繰り返しのようである。しかし若い研究者らはより新しいアプローチを始めており、彼らはビデオゲームやソーシャルメディア、また文化的な意味での孤立が移民の子らの若い世代に与える影響に関心を持っている。若い世代の移民は現実から隔離され、無関心や憎悪といった感情以外では周囲の社会とつながりを持たない。このことから、同事件の生存者が、どのように襲撃者が犠牲者を殺害したかについて述べる際にしばしば繰り返される「プログラムされたような(論理的で無駄のない)」という表現を理解することができる。

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( 翻訳者:増田まい )
( 記事ID:39201 )