ワジード・アブドゥルマジード(著者)
■議会のためのキリスト教徒議長の格闘
【ワジード・アブドゥルマジード】
エジプト人の多くは、エジプトの政治史が、今では奇跡としか思われない輝かしいページにあふれていることを知らない。半世紀にわたってエジプトに吹き荒れた嵐の後。
今日では奇跡のように思われる最たるものは、キリスト教徒のエジプト人が、1928年、1930年と、二度にわたって議会の議長を務めたということだ。まだ議長が正規の職位ではなかった時のことである。
亡き偉人、(訳注:コプト・キリスト教徒である)ウィーサー・ワースィフの家は生粋のエジプト人の一族で、祖国解放運動に貢献した。彼は議会の普通の議長ではなかった。というのは彼の第二期に劇的な事件が起きたからである。それは国王と政府に対する議員からの批判が激しくなることで始まった。その時の政府はワースィフが属するワフド党が支配的であった。彼は議員たちの行動を「制御」させようとするすべての圧力に抗した。ムスタファ・ナッハース内閣を国王が解散させ、イスマーイール・スィドゥキーを(首相に)任命したが、彼は議会の議長を封じ込めることに失敗し、結果的に議会の機能を停止させることを決定したのだ。
これに対する抗議行動が行なわれ、一部の議員が議会停止の決定を取り消すよう要求した時、スィドゥキーは厳戒態勢を敷き、議会の扉を鎖で閉ざした。しかしながら、こうした措置は多くの議員が議会の前で抗議の声を上げることを止めることはできなかった。
熱気が高まり、議員の一部が鎖を断ち切ろうとした時、人々はそれを制止した。そして人々は彼らに、正義の主は正義を踏みにじってはならない、議会の議長こそが扉を開ける命令を出せるのだと語ったのである。
ワースィフは実際にそう請われたわけではないにもかかわらず、持ち前の勇敢さを持って、警備員に扉を開けるよう命じた。自分が議会の正統な議長であると名乗って。そして議員たちは議会に入り、歴史的な会議を開いた。しかし国王はそれに対し、議会の解散をもって答えたが。
この姿勢は輝かしいウィーサー・ワースィフの歴史の一コマに過ぎない。それは彼の一家が政治だけでなく、文化、文学、芸術においてなした貢献の一部にすぎないのである。この機会に、その子孫がなした功績を思い出しておこう。ラムスィース・ワースィフはエジプト建築の近代化の先駆者のひとりであり、同じく先駆者の一人であるハサン・ファトゥヒーとともに、ヨーロッパ式の建築が席巻し、無秩序と醜悪さが広がるなかで、消えつつあったエジプト(固有)の建築の本来の姿を解明した。
エジプト社会における美や文明に関する感覚にどのような激しい変化が起ころうとも、ラムスィース・ワースィフは、エジプト本来の建築を思い起こさせるような案を出した。(カイロ郊外の)ハッラーニーヤ芸術センターでそうしたように、日干しレンガやドームを使い、ムフタール美術館の正面のように、カルナク神殿からヒントを得て石を使うことによって。
世代を超えた偉大なるワースィフ家の人々に敬意をこめて。
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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:39433 )