ハマムオニュとは…アンカラ県アルトゥンダー郡にて、この都市で初めに居住地となった場所であり、有名なアンカラ城の裾野に作られた歴史的地区である。その名はオウズ部族のバユンドゥル部指導者の一人、カラジャベイが作った1対のハマムから取られた。
タジェッディン・スルタン・モスク、ハジュ・イルヤス・モスク、ハジュ・ムーサ・モスク、サルカドゥ・モスク、メフメト・チェレビ・モスクといったモスクが礼拝の痕跡を、カミル・パシャ邸、ベイナムルザーデ邸、カバクチュ邸といった場所ではアンカラ商人の過去の痕跡を、今日まで残している。メフメト・アキフ・エルソイが独立行進曲(トルコ国歌)を作曲した家は今日「博物館の家」としてハマムオニュの注目される場所のうちの一つだ。この場所のこうした特徴は、いつの時代も保守的な政治運動をここに引きつけた。「国民の視座」支持者が大学時代にここの神秘主義教団の修行場で催した語らいの会合で多くの時間を過ごしたと知られている。
19世紀の民間建築のような歴史的建物でいっぱいのこの場所は、長年にわたり廃墟の中で刑事事件が発生する所であり、政界の関心を失っていたが、アルトゥンダー当局が重大な決定をとり修復計画を始めたことにより場所をこの運命から救った。ハマムオニュは、その景観、店、レストラン、通りを城と一体化した、広く注目される場所であるが、ついにアンカラの人々の、つまりは政界の関心の的となりはじめた。
■古い地区への関心
弊紙(ヒュッリイェト紙)の国会担当責任者のヌライ・ババジャンは今週弊紙の「アンカラ舞台裏」のコーナーのために政界のハマムオニュへの関心を調査した。それによると、アンカラの古い地区では政治の古い(ベテランの)人物の重大な動きがあるのだ。ハマムオニュの最初の政界訪問者の一人は、ここに自身の事務所を開いたレファヨル(福祉党と正道党連立)内閣の大臣たちの中にいて、その後民族主義者行動党(MHP)から国会議員に選出されたギュルジャン・ダーダシュである。公正発展党(AKP)設立当初の若手の一人であり、国会会派副代表、青年スポーツ大臣のような役職に就き、今のダヴトオール政権時に離党したスアト・クルチが、ダーダシュの後に続いた。
クルチは2つの別々の古い建物を購入して本来にふさわしい修復を行い、自身の活動場所を作り出し、友人らと訪問者にこの場所で会い始めた。クルチのハマムオニュの郷愁的な建物は他の政治家たちをも奮起させた。11月1日の総選挙で国会議員となるための立候補の申し込みさえしていなかった元産業貿易大臣のニハト・エルギュンも同じ地域に自身の事務所を開く決定をとった。
ハマムオニュを選んだまた別の有名政治家はというと、少し前にタイイプ・エルドアン大統領とドルマバフチェ会談の件で議論を行ったビュレント・アルンチ[元副首相]であった。一方でこの偶然の一致を見ると、アルンチのメッセージを「リツイート」したヒュセイン・チェリキもアルンチ同様にこの地区で事務所を開くために投資を行い建設を開始した。現在AKPのイスタンブル選出国会議員であるハヤティ・ヤズジュも自身の事務所を購入するためにここで土地を見たが、 自身に紹介されたオフィスが気に入らなかったと述べられている。
■新しい政治的メッセージか
ハマムオニュに落ち着いたギュルジャン・ダーダシュは「国民の視座」からだいぶ前に切り離され、内閣の行動に対して大変批判的な文章を書いたと知られている。ハマムオニュで事務所を開く準備をしていたアルンチの最近の発言も、党との間で緊張を作っていた。アルンチにソーシャルメディアで公に支持を表明したクルチやチェリキ、党の方針についての批判的な姿勢が注目を集めるエルギュンやヤズジュが、ハマムオニュを選んだのは政治の裏側でとても注目を集めている。
時折サドゥッラー・エルギン元法務相やサリフ・カプスズ元アンカラ選出国会議員もが含まれるこのグループが、第11代目大統領アブドゥッラー・ギュルの許に集まったと解釈されるとしても、この一致が新しい政治の形成というメッセージを帯びていないということが特に強調される。それでも政治の裏側での「AKPの反体制派の人物がハマムオニュに集まっている」との解釈を止めることはできない。
長年にわたりAKPで政治を担ってきた人物たちが家を買ったり、事務所を構える目的で選んだ地区がチュクランバルであるために「チュクランバル政治」との表現が生まれたと知られている。おそらく党との関係がここ暫く宙づりの元大臣と党の指導者たちがハマムオニュを選んだことが「ハマムオニュ運動」との表現を生み出した。
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( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:39825 )