コラム:メディアの在り方を問う
2016年07月16日付 al-Quds al-Arabi 紙
■我々は本当にダーイシュあるいは犯罪者なのか
【ファイサル・カーシム】
欧米のメディアが常に、アラブ人をかつてはアルカーイダ、現在はダーイシュの一員の生き写しとして描こうとするのか私には分からない。大多数のアラブ人はダーイシュの一員ではなく、また悪者でもないことは周知の通りである。その証拠に、アラブ人は、何年も前から、全てのアラブの若者を踊り手や道化師に変えるために数十億ドルを費やしてきた。アラブ人が欧米に代わって、また自らの身を削りながら欧米化のミッションを遂行していることに気付くべきだ。もし私が欧米人の立場にいたならば、欧米型の文化や思想、政治の普及、そして欧米から求められている方向へとアラブの指針を示すことを目的に、アラブに向けられるメディアに対し、1ドルも払いはしなかっただろう。なぜか?アラブのメディアの多くは外国の代わりにそれらを行い、大きな成功を収めているものの、その一方でアラブの街頭へと欧米のメディアが浸透することは失敗したからである。
多くの私たちの芸術、政治、文化的なメディアは、アラビア語、アラブ人の顔、そしてアラブの書き手によって外国の価値観や模範を広めるために、相次いで衛星チャンネルを開設し、衛星チャンネルに数百万ドル支出するようになった。こうした支出は、ニザール・カッバーニーに言わせれば『数ラトルで』(重量の単位。各国で異なる)であるという。アラブの空が、欧米の映画や番組に限って割り当てられたチャンネルで溢れるようになった。欧米的な調子や精神によってアラブ芸術を特集する芸術アラブチャンネルについて触れる必要はない。見間違うことも、聞き漏らすこともないからである。それは欧米のやり方でアラブ社会を再構成するために、今求められている文化の一部である。特に社会は、結局のところ、精査されたメディアや文化、社会の政策の産物である。我々は、日が終わるころになると、実験用マウスに過ぎず、我々を外から管理する者たちの意に沿うようにして、生活や文化の様式、はたまた我々の宗教的な信条までもを、変えるよう求められているように見える。
(後略)
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( 翻訳者:柴田まり菜 )
( 記事ID:40887 )