調査委員会へ証言「ギュレン運動支持は大統領や首相レベルだった」
2016年10月20日付 Hurriyet 紙
フェフミ・コル記者は、トルコ大国民議会(TBMM)におけるフェトフッラー派テロ組織(FETÖ)のクーデター未遂に関する調査委員会にて「90年代に外国への道が開かれた際、大統領、首相レベルで支援された。学校が開設された際、大統領はそれらに対して書簡を送った」と発言した。コル記者は12月17日~25日の汚職問題の際、当時のギュル大統領、当時のエルドアン首相、フェトフッラー・ギュレン師の間で行われた会談についても以下のように述べた。
■国内の構造を国外へ
この組織のもっとも重要な特徴は、国内で行ったことを国外でも同じように行っているということである。12月17日~25日の汚職問題の後、彼らはトルコのイメージを悪化させようとした。ザマン紙は発刊時、まだ教団との繋がりを持っていなかった。暫くして、ザマン紙がイスタンブルに移転すると言われた。その時、ギュレン師という名が現れた。私はアンカラの代表・主筆としてその場に留まった。ザマン紙は一層教団との繋がりを持つ人物が主導し続けた。私は11年間、教団との繋がりのある時期を過ごした。彼らは予備校を開校し、社会奉仕の名で知られたグループであった。私が同紙を離れた時、目立った状態はなかった。私の離職は平和裏に、とはいかなかった。
■つい最近までこのようだった
90年代は、国外への道が開かれた時代だった。大統領、首相レベルで支援された。開校の準備の際に、大統領は彼らに対して書簡を送った。つい最近までこのようなことが続いた。
ー(執筆者や上層部はギュレン派の会議を行っていた?)
時々行っていた。しかし頻繁にではない。イフタールが始まったので、特に記者が来ることが望まれていた。このため、記者・執筆者財団が創設された。皆すぐに参加した。
■アブドゥッラー・ギュルとの対話
12月18日夕刻、アブドゥッラー・ギュル大統領(当時)と大統領公邸にて会談した。その前日に生じた検察官と警察官によって行われたこと(12月17日作戦)についてだ。私は彼の見解を聞き出したかった。これは本当に教団と繋がりを持った事件なのか?国家の下で働く検察官と警察官を使って、このようなことが行われうるのか?このようなことを単刀直入に聞きたい、と私は言った。大統領は「よかろう」と述べた。
■政府専用機が使用できた
この話題について話しているとき、ギュル大統領自身もそれに興味を持っていた。私も興味を持っていた。為政者として「このような面談がなされうるだろうか」という問いかけがなされた。「私はできるし、行けます。首相(エルドアン)とも話しましょう」と私は述べた。電話をし、翌朝に[イスタンブルの]クスクルの公邸で会う約束を取り付けた。イスタンブルに戻り、朝8時から8時半ごろに公邸へ赴いた。彼も同じことを望み、同じものを欲しているというように見えた。「行って ください、そして必ず話すように…。すぐに行きなさい」と言った。「政府専用機を派遣することができる」という話を聞いたが、私はそのようなものは望んでいないと言った。
(後略)
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:神谷亮平 )
( 記事ID:41457 )