■イタリア人聖地巡礼者の書物に見られるイスラーム、ムスリムの像とは
【国際:ハーティム・タハーウィー】
この記事では14世紀末にイタリア人巡礼者が記した記録を取り上げる。1384年、13名の巡礼者から成る使節団がイタリアのフィレンツェを発った。エジプトとパレスチナにあるキリスト教の聖地巡礼のためだ。この旅は1年を要した。出発地フィレンツェから始まりベネチア、アレクサンドリア、カイロ、シナイ半島へと周り、それからガザ、ヘブロン、エルサレム、ヨルダン川、ガリラヤを通り、最期にようやくダマスカスとベイルートに到着した。
旅の道中、3人の仲間が死んだ。旅が始まって一年が終わろうとする頃には、残り10人の巡礼者は母国へと帰還した。そしてその内の3人、レオナルド・フレスコバルディとサイモン・シグリ、ジョルジ・グッチらはフィレンツェにて、イスラーム的アラブ的オリエントへの宗教の旅を記録し、後世に残した。この記録は多くの点で一致するものの、細部で異なる三人の証言が基となっている。
元々、フレスコバルディは、キリスト教に対するイスラーム教の立場に関心を持っていた。彼は、イスラーム教徒がキリスト教とそのシンボルである聖母マリア、洗礼者ヨハネ、またエジプトの聖カタリナ修道院に対する尊敬の念を大きく抱いていると指摘した。また彼は、イスラーム教徒が天使ガブリエルをアッラーの情け深い御恵みとみなし、そのもとで幼くしてお話になったイエス・キリストを尊敬しているとした。そしてムスリムは、イエス・キリストを特殊な立場に置いているため、預言者ムハンマドと同等の立場にイエスを置いてはいないと指摘した。こうした指摘を踏まえると、フレスコバルディの言う「イスラーム教徒は宗教的側面から我々キリスト教徒と似ている」という記述を踏まえて、ムスリムとキリスト教徒が明示的に類似しているとする解説には議論の余地があるだろう。
(中略)
同様に、フレスコバルディはムスリム女性の慎ましさに注目し「彼女らは、目だけを外に出しているが、高貴さがベールのようにその目を覆っている」と記述した。シグリもまた、こうした点を「妻は、夫に気づかれずに彼の前を100回通り過ぎることができる!」と驚嘆して述べて強調した。しかしながら、フレスコバルディの記述で最も重要なのは、大都市で商業を営む幾人かのムスリム女性に対する注目していることだ。彼は、この女性たちを「毛並みが整えられ、彩色され、少年が引くラバに乗るどこかのプロの隊商人のようだ」と記している。この記述は、当時のイスラーム社会における社会的、経済的な状況に関する諸記述を踏まえると妥当と言えよう。
グッチはダマスカスの女性の美しさについてユニークな説明をしている。恐らく彼の説明は事実とは違う。自分で見たとは書いていないからだ。1268年、マムルーク朝のスルタンであるバイバルスが十字軍からアンタキアの奪還に成功した。その結果、当時4000人ものヨーロッパ人女性がダマスカスに移住し、ムスリムの男性と結婚した。彼の説明は、このような時期に流行ったとものと推測できる。こうした記述は、エジプトの都市マンスーラにおける女性の美しさに関する記述を思い起こさせる。というのも、1250年の第7回十字軍遠征において、マムルーク(軍人の奴隷)がフランス王ルイ9世を破ったときにも、数百人のヨーロッパ人女性が捕虜となり、その後マムルークとの結婚が行われたからだ。
(後略)
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( 翻訳者:江部七子 )
( 記事ID:41480 )