■祖国は一つであり、運命も同じである。
【ファールーク・ジュワイダ】
テロリストはこう考える。エジプトにおけるイスラム教徒とコプト・キリスト教徒の関係は弱点であると。そしてそこからエジプト人の生活のすべてをだめにするための出発点が見つかると。それが内戦への一番の近道だと考えるのだ。
不思議なのは、こうした愚か者たちは、エジプト人が良い時も悪い時も一体であった長い歴史を無視するということだ。エジプトの国民は一日たりとも、ひとつの祖国のなかで人々を分断することはなかった。家では互いに隣人であり、学校では同じ場所に座り、クラブでも、喫茶店でも、病院でも、イスラム教徒、キリスト教徒として、存在していたのではなかった。一日たりとも、家族は治療にあたってくれている医者がイスラム教徒なのかキリスト教徒なのかを訊くことなどなかった。家の前に立っている警備員はほかの宗教の徒であり、モスクは教会に隣接していた。誰もがみな唯一神に祈りをささげたのである。
ザグルール(訳注:英からの独立を達成した1919年革命の指導者)に続いて歩いた時、(同じエジプト人として歩いたのであって、)エジプト人はイスラム教徒とキリスト教徒がいる、などと感じてはいなかった。ワフド党(訳注:1919年革命を率いた組織)結成にあたってはエジプトにおける一番重要なキリスト教徒の一族が加わった。(イスラム教徒である)ナッハース・パシャと(キリスト教徒である)マクラム・ウバイドの間に区別はなかった。それどころかマクラム・ウバイドは裁判においてイスラム教徒を守り、彼はキリスト教徒でありながら、コーランを暗唱し、そのいくつもの節を次々と唱えて見せた。
(イスラム教徒の文人である)アッカードはイエスについての本を書いたが、それは彼は神の使徒たちの間に区別をしていないということだ。(訳注:イスラムではイエスは神の使徒、預言者と考える。)(キリスト教徒の文人である)ナズミー・ルーカーがムハンマドについての本を書いたとき、そうさせたのは愛だった。(イスラム教徒の文人である)ハーレド・ムハンマド・ハーレドがイエスについて書いた時、彼は預言者たちの一人として敬意を表したのだ。
そもそもこうしたことすべての前に、コーランのマルヤム(マリア)の章は、愛と信仰と他宗教への敬意を教えたものである。いったいどこから、いつの日も愛の上に成り立ってきた祖国エジプトの内部にテロが入り込むのだろうか。モスクや教会の入り口で流れるのは、無辜の人々の血以外の何ものでもない。罪のない人々が殺されるのである。
テロが知ることの無いのは、これらの血は永遠なる大河ナイルの水を飲み、この土地の土となり、その一部になるということだ。一つの祖国を守るため、今、(テロの続く)シナイ半島で命を落とす殉教者たちが、キリスト教徒なのかイスラム教徒なのかなど、人々は知りはしない。こうした流血事件は、エジプト国民が祖国の安全を切望し、願う気持ちを強くする。なぜなら、船は一つであり、夢は一つだからだ。私たちには一つの祖国しかなく、運命もまた一つである。
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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:41760 )