グルグル誌、閉刊、全員解雇
2017年02月16日付 Cumhuriyet 紙


最新号の風刺画で世間の反感を買ったグルグル誌は閉刊となった。出版社の弁護士は、「閉刊の原因となった漫画家及び従業員について、出版社として共和国検察に訴えを起こす」と述べた。

トルコで最も売れているユーモア誌の一つ、グルグル誌はもはや発売されない。

「ソズジュ紙」の付録として発行され、最新号で風刺画により世間の反感を買ったグルグル誌は、出版社により本日閉刊となった。

グルグル誌は、最新号で預言者モーセに関する風刺画を発行した。同誌のこの風刺画が預言者モーセを侮辱するとの訴えで、ツイッターで反感を買った。ハッシュタグ#gırgırdergisikapatılsınは一日でトップツイートとなった。出版社は、これに対しグルグル誌のツイッターアカウントで謝罪し、「疲れ、不眠により印刷前に気づかなかったこの『最悪』な風刺画により苦しませてしまった皆様に謝罪する」と表明した。

■「全従業員を解雇する」

出版社の弁護士は下記の通り説明した。

「グルグル誌の最新号で好ましくない風刺画があり、それにより出版社はグルグル誌の閉刊及び同誌に関わっていた従業員全員を解雇する決定を取った。この風刺画が掲載されたことで社会の皆さまを不快にしたことをはじめ、出版社としても非常に不快に感じている。風刺画が企業を困難な状況に貶める目的で悪意を抱いて働いた者・者達により世に出てしまったと考えている。故意であることが問題なのである。宗教的価値観を貶めたこの風刺画は、悪意で描かれ、出版社に相談なく、あた かも秘密にして、最後まで通達なく出版された。これを行った者達については、出版社として共和国検察に提訴する。」

■キュチュクチェメジェ最高検察庁が調査開始

一方、グルグル誌で掲載された風刺画によりキュチュクチェメジェ最高検察庁が調査を始めた。同誌最新号に掲載された「モーゼは紅海を分かちユダヤ人は救われる」とのタイトルの風刺が、ユダヤ教やイスラームのような神聖な宗教に対する侮辱を含んでいるとされた。風刺を描き、発行した者達についてトルコ刑法の216条3項における「人びとの一部が有している宗教的価値観を貶める」罪で捜査が開始されたことが判明した。

■グルグル誌の歴史

オウズ・アラル編集のもと、1972-89年までトルコで最も売れたカルトユーモア誌である。オウズ・アラルは、弟のテキン・アラルと1972年8月26日にグルグル誌を発刊、基本スローガンは、「日常の悩み、心痛、恋愛の傷、夫婦喧嘩をすぐにおさめる。あらゆる悩みの処方箋。お悩み解消」であった。

グルグルの発行部数は30万部までのぼり、欧州のユーモア誌発行部数で第3位となった。現在主流となっているユーモア作家の大半が同誌で育った。

グルグル誌は一時ユーモア理解において大きな影響を与えた。その後出てきたフルト誌、デリ誌、フブル誌、ミクロプ誌、リモン誌、レマン誌、オキュズ誌、ハイヴァン誌、ペンギン誌、ウイクスズ誌はグルグルをモデルとし、成長していった。

グルグル誌は、一部の者が説くように70年代の雑誌である。その誕生も成長も、70年代である。グルグル誌登場以前の60年代は、とても、とても有名なアクババ誌が存在した。それ以前、有名なユーモア作家のアズィズ・ネスィン、ルファト・ウルガズが出したマルコ・パシャがあった(マルコ・パシャが発禁となるとマルム・パシャ(malum paşa)のような別名義で続けた)。創刊号は1946年11月25日に発行、批判鋭い在野のユーモア紙であり、アクババは1922~77年まで55年間続いた。

アクババ誌の後のグルグルが、異色かつ漫画要素が濃い雑誌として誕生した。以前の雑誌は文章主体であった。

■グルグル誌の誕生

グルグル誌は元々、新聞の風刺コーナーにあった。発行当時25クルシュだった「ギュン」誌の風刺コーナーで始まった。このコーナーをオウズ・アラルが手掛けた。コーナーの人気が出るや、コーナーから出て同紙付録の雑誌となり、独立してグルグル誌となった。

グルグルが新聞のコーナーから独立した雑誌になった当時、トップにはオウズ・アラルと弟のテキン・アラル氏がいた。これに、ヌリ・クルトチェベ、エフラトゥン・ヌリと言った漫画家も参加した。しかし、雑誌ページがそれでも埋まらないと、ページの一部分をアマチュアに開放した。まずは、おかしな思い出を描いて持ち込む者たちは、ずだ袋で金を得る者と位置づけられていた。その後、アマチュア漫画家に「花を鼻で描く」とのタイトルでチャンスが与えられた。雑誌中のコラムで、オウズはアマチュア漫画家に2、3のアドバイスを頻繁に行った。著名な言葉を用いハッチングのやり過ぎを避けること、遠近法を用いることを頻繁に繰り返していた。ベテランになると、最終ページでコメントなしに掲載するようになった。

今日における全ての有名風刺画家は、あの「花を鼻」コーナーより生まれた。ガニ・ムジュデレル、メティン・ウストゥンダーラル、メフメト・チャチャラル等は第2世代のグルグル人であった。

この後のことを語る前に、まずは少し当時の状況を伝えよう。性の問題はグルグルが新聞のコーナーであった時にはじまった。オウズ・アラルのコラムのみで、オウズ・アラル氏は裸の美しい女性の脚の間でちっぽけな虚弱な男性を描いた。

グルグルが雑誌となっても一定期間それは続いていき、特にオウズ・アラル氏が有名な漫画シリーズ「恥知らずの男」で威厳のある女たらしの男が常に裸の女性と共に描かれた。

■9月12日に閉刊

[1980年]9月12日の軍事クーデターの時期、新聞が一部のニュースをはっきり書くことが出来ないなか、グルグル誌は、ユーモア、そして風刺を用い記事を書いた。悪い出来事を新聞でなくグルグル誌で知っていた。(記事は)ユーモアに変え描かれたので、直接発禁措置を受けなかった。ただ、9月12日クーデター期に、私のトルコ、私のトルコとの歌で頻繁にテレビに出ていたムシェッレフ・アカイを(当時の苗字はテズジャン)表紙に飾ると、グルグル誌に対しても閉刊命令が下された。理由は下記の通り。「醜い女にトルコ国旗を着せた」。国旗は法で国旗を着用出来ない旨条項があった、記憶が間違っていなければ。その後さら に2度、期間を置いて閉刊措置を受けたが出版を続けていた。

閉刊となったグルグル誌は、2015年5月16日よりソズジュ誌の付録として無料で配布されていた。

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( 翻訳者:山根卓朗 )
( 記事ID:42168 )