■アラブの科学を救うのは西洋の模倣ではなく知的批判の確立(1)
【マグディー・ユースフ】
アラブ諸国におけるアラビア語アカデミーの事業は、殊に西洋的な概念や用語を我々の民族語に馴染むように翻訳することで、西洋の科学や芸術の進歩と、世界に追いつこうとするアラブの試みの間にある隔たりを埋めることにほとんど限定されている。ところが、こういった努力は、アラブの学術研究施設(特に自然科学)においては、殆ど存在しない状況に陥っている。恐らく直接的には、ヨーロッパの言語―ただし大抵の場合英語であるが―による、精密科学の専門教育に起因する。これには例外もある。シリアはその例として相応しい。シリアは、アリー・ムバーラクが19世紀後半、ヘディーウの「クトゥブハーナ(エジプト国立・公文書館の前身)」に設立した「ダール・ウルーム」でアズハルの学生に講義されるよう、西洋のあらゆる知識をアラビア語に翻訳していたからである。
したがって、あらゆる知識分野の専門的な解決策を生み出そうとするアラブ的概念の形成のみならず、西洋的概念や用語の翻訳という言語レベルでのアラブの研究活動も縮小してしまったのだ。アラブの大学を見てみると、その教育というのは、基本的に西洋で既に発見された解決の再生産に依拠しているのを目にする。それは、我々の文脈とそのような解決を生み出した文脈の違いをはじめとする批判に曝されることもない。つまりこのことは、独立した方法論を見つけようとする科学研究の萌芽を摘み取ってしまうことを意味する。余談だが、国際水準に対して我々アラブの大学の研究状況が方法論的に低下してしまったことに、我々はなぜ驚かないのだろうか。さらに悲惨なのは、大学の教授陣は名のある西洋の科学誌に寄稿できれば、たとえ彼らの国がその発見を議論する前であったとしても、何倍もの報酬が与えられることである。これではまるで、科学研究において我々が到達したものを西洋に認めてもらうことが、我々の一番の望みであるかのようではないか。
(2)に続く
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( 翻訳者:二見咲穂 )
( 記事ID:42734 )