(正義の行進後の)集会が非常に混雑したことは事実である。
与野党共々この事実をよく読み解かなければならない。
エムレ・コンガル氏(※1)が当集会について記した「夢にも思わなかった」という認識はかなり重要である。
なぜ集会は夢にも思わなかったのか、なぜ集会は成功したのか?
■社会学的な基盤
我々の歴史では政治を定義する要因は、労働と資本の間における矛盾ではなく、中心と周縁の間における矛盾であった。共和人民党(CHP)は、中心、国家、権威に同一化した。また、民主党(DP)や後続の諸政党は、民衆と人民と同一化し、(それによって)常々、選挙に勝利してきた。
中道左派運動の理論家である故トゥラン・ギュネシュ氏は『CHPは民衆からいかにして離れていったか?』という題目の著名な論文により1960年代に新たな視座を提示した。
また、デニズ・バイカル氏(※2)が1971年に著した『政治的参加』という題名の博士論文のテーマもこのこと(について)であった。
諸革命、舞踏会、キャップ帽、トゥルバン(※3)、生活様式などの文化的なシンボルはこうした二極化の表出である。
現在、公正発展党(AKP)は同様の社会学的な基盤を護るべく、今日のCHPを「単一政党」時代(のもの)と同一視している。
■前面に出た概念
(正義の)行進と集会が持つ本来の重要性は、この社会学的な精神を取り払う試みであるということだ。
このため、野党側からも行進への参加者が現れ、更にはこれを好意的に描く書き手も現れた。集会について、クルチダルオール氏は野党側の感情に対しても配慮した。
「エルゲネコンやバルヨズの犠牲者たちに」、「非常事態政令の犠牲者たちに」、「マルマラ海地震の犠牲者を」(という発言)はこのことの現れである。
また彼はテロ組織と(昨年)7月15日に起こったクーデターを非難した。この災いと争いの犠牲者の間で分断が起こらぬよう望んだ。
集会の最後に読み上げた「10カ条の正義の呼びかけ」も同様の性質のものであった。
分断をせず、全ての犠牲者のために「権利、法、正義」をクルチダルオール氏が求めたことは、集会への参加は「思いもよらなかった」と言われる様相に達した。
■与党と野党
CHPが自身の拡大を望むのであれば、自政党の精神の枠の外に出て、異なる社会層に属する人々に対し、開かれたものとなることが必要となると見られる。
「不当、不法、不正義」といった感情が社会での「権利、法、正義」を求めて、こうした集会を行うような潜在力にまで押し上げられたことを、与党は考えなければならない。
トルコにおける政治の重大なテーマは、もはや、伝統的な二極化の象徴とスローガンではなく、発展した社会にあるような法、人権、正義、経済、教育といった具体的なテーマであるべきである。
集会がこの方向における一つのターニングポイントとなることを願う。
このことはもちろんCHPの新たな態度が確固たるものかということと繋がっているのである。
■ナチスの法務大臣
クルチダルオール氏は演説の中で、ナチスの法務大臣であったハンス・フランクが裁判官達に、「フューラー(※4)がお考えになった通りに決めろ」と発していたと述べた。
1980年に出版された拙著『政治における暴力』では全体主義の考えを説明する際、私もハンス・フランクの言葉に触れた。
「かつては、これは正しい、あるいはこれは間違っている、と言うことに慣れ親しんでいた。(しかし)今日我々はもはや次のように考えなくてはならない。フューラーはいったいどのように考えていたのだろうか?
アドルフ・ヒトラーの名のもとに署名された法律を、国民の精神による神聖な産物と捉えることは、我々皆にとって偉大かつ不可避の義務である。」
しかしながら、起こった出来事に対してどう振る舞うのかを考えるのに、「正しいのか、間違っているのか」を問うて考えることは、自由意思、科学、民主主義的な文化の第一条件である。
37年前に書いた拙著について今日言及したのは、どの時代においても自分なりに、何かに縛られずに考え、独立・中立の司法を求めていたことを記すがためである。
(訳注)
※1トルコの社会学者(1941~)
※2トルコの政治家(1938~)前CHP党首(1992~2010)
※3スカーフの一種。
※4ドイツ語で指導者の意。ナチスの指導者としてのヒトラーの称号
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:成田健司 )
( 記事ID:42960 )